mixiユーザー(id:18419990)

2021年10月12日15:52

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プラトン国家下@読中感想文 続

 未だ読み終わっていない。
 読みながら、イデアを撮影することは可能だろうか?写真にイデアが写ってしまうことはないだろうか?などと、しょうもないことを考えていた。なぜなら私が良い写真だと思う写真は本質を捉えたと私が思う写真だからだ。

 だが本書の10巻でそれは否定される。絵画に対してだが(紀元前に写真は存在しない)絵画は現実の事象を対象としている以上、イデアを対象とはし得ない。写真はもっと酷い被写体を対象にするしかない。
 とはいえ本書によれば、写真は絵画より有利な点がある。絵画は真似であるのに対し写真は真似ではなくそのものであることだ。絵画は真似る過程においてデフォルメが可能である。写真は不可能だ(脱線するが私はそのことを悔しく思っていた)。つまりデフォルメが不可能な点において写真はいくぶんイデアに近い。プラトンが現代に生きていたら写真に対して何て言うか判らないけどね。

 ところで私は前述で「本質を捉えた写真が良い写真」などと偉そうな事を書いてしまったが、本質=イデアのなにほどを知っているのか?ある特定のものしか知らない。いや、それすらも本当に知っているのか?
 プラトンは「寝椅子」を例に挙げたが、彼自身、寝椅子のイデアを知っているのか甚だ疑わしい。
 そこで専門化という傾向が生まれる。イデアを求めるなら、それしかない。一個人の能力には限界がある。全てのイデアを知り得る超人的哲学者が存在し得れば、その人が支配者になれば良いが、そうしようとしたらプラトンが最悪とした独裁制に陥るしかないと思う。結局、民主制が妥協策なんじゃないかな?
 ただし専門家がどれだけ集まってもそれは全部であって全体ではない。支配者は全体を知る者でなければならないが、そんな人物は存在し得ない。無理に支配者を作るとイデアも全体も知らない者が立ち独裁制になる。やっぱり民主制が妥協策なんじゃないかな?
 イデア論の論拠は数学だ。数学は多数決ではなく厳密な正解がある。たとえ大多数が反対しても数学的な正解はくつがえらない。
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