mixiユーザー(id:11073381)

2021年08月16日03:30

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無条件降伏記念日

そういえば8月15日だった。終戦(戦争を終わらせた、、)というのはアメリカが使う言葉だろう。戦争は終わったのではなく終わらせられたのだから。日本にとっては降伏記念日、敗戦記念日とかが正しい言葉かな、、

前にも書いたと思うけど、親父が色々話した事を書いてみる。父は陸士56期で、1年飛びで士官学校に入ったので少尉になったのは17歳とかだったはず。当時士官は一番給料の良い職業の一つだった、、まぁ命をかける職業軍人だから当然か、、なりたての士官さんは最初数ヶ月内地で研修といった名目で良いめを見させてもらってから戦地に配属になった。一応希望を聞かれて親父は寒い所は嫌いとか言ったらしく、、南方の島送りに。

士官学校関連の連帯は戦後も続いていて親父の同期生からも色んな話を聞いた。ソ連に抑留された兵隊はもっと大変だったようだ。彼らは偕行社のメンバーだったりそうじゃなかったりだったが、戦争に対しては完全に否定的だった。それが必要悪だったとしても、最後の最後まで戦争を避ける努力をしなければならない。前線で戦争を経験した人は皆そう言うだろう。

ブーゲンビルとかガタルカナルとかソロモン群島の守備に宛てられたが、山本元帥を探しに出たり、、そういえば山本五十六は撃墜されてジャングルに墜ち、飛行機の中で発見されたらしいが、死んではいなかったらしい。とは言ってもボロボロの体だったと発見者から聞いたとか。彼が何時どのルートを通るか、米軍は完全に知っていたらしい。まぁこれでは戦争になりません。

そしてガタルカナルでは全く戦力の異なる米軍相手に戦闘というよりは隠れて行き延びる事に徹していた。食料も軍備も補給は完全に途絶えて、1発手敵の居そうな辺りに打ち込めば100発お返しを食らった。食えるものは何でも食った。ヘビでもワニでもクモでもイグアナの類いでも。親父はマラリアに罹り1年近くジャングルで寝たきりに。当番の伍長が必死に看護してくれたおかげで生き延びた。戦闘がなくても餓死・病死が待っていた。状況を大本営に伝えても何の対応も無かった。東京の将軍達は戦争のなんたるかを全く理解していなかった。これは現地で命をかけて戦っていた人間の共通した見解のようだ。南方でも中国でも沖縄でもどこでも同じような状況だった。

工業力、軍事力そしてヒューマンパワーと総てに於いて格段の差がある米国と戦争をする愚かさを山本は良く承知していた。それでも世界を知らない井の中の蛙の陸軍のバカ共に押し切られた。政治も無能だった。本土決戦などという余りにも愚かなスローガンを掲げた陸軍は沖縄の状況をよく知っていたはずだから、国民全員に死ね!と言っていた事になる。結果無条件降伏して多くの戦争責任者達は国家機密と中国で搾取した金品を差し出して命乞いした。親父達は帰国のための船が来るのを1年近く待っていた。日本にはもう船がなかった。

この戦争、避ける事が出来たはずである。何故戦争に突き進んだのか、、勿論米国の挑発もあった。が、それに乗る必要はなかったはずだ。日本という国のキャパシティを勘違いしている人間が権力を握っているというのは今でも似たような状況だと思う。キャパの差を精神で補え、というような事がいまだに言われているのも。それは恐ろしい事だ。
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