■大祓い間近の高麗神社■
これから先はほぼ登り基調となる。休憩はちょうど良いタイミングだったかもしれない。
飯能警察前の交差点を登る。登り基調ということ、歩行者は皆無だったこともあり、だだっ広い歩道を使った。相変わらず4⇒3速への動きがいまいちだ。4から3になかなか落ちてくれない。フロント2速で粘って登るより、今日はさっさと1速に落とした。メッツアの駐車場にはきれいなトイレと自販機があるので水分補給と用を足す。一階は満車だった。平日で、まん防解除直後でこれだけお客が入っていれば上々だろう。
休憩出来たところで再出発。ここでもR299での応用で、信号待ちをしているクルマを見て、追いつかれても大丈夫そうであれば出る。大型車ばかりの場合はやり過ごすことにする。
標識はなさそうだが、ガテン系や運送屋さんが寄りそうなラーメン屋あたりで日高市だろう。そこを下り、Y字路を左折。ここは25年程前に出来た当時は無駄にだだっ広い道でしかなかった。時々運送屋が飛ばして通る程度。空き地が多く、真冬は砂埃が舞う、何とも淋しいところだったが、それが県道を越えてさらに進むとロードサイドに店が増えた。実際同市は人口も増えている。
ローソンの手前の交差点を左折し、道なりに進むと高麗川に架かる出世橋が見えて来る。改修がだいぶ進んだようで、欄干が赤く塗られていた。その手前には標識に日本語とハングル文字が。この神社は嘗て高句麗からの移民たちによって建立された。半島とゆかりのある神社だからだろう。
坂を駆け上がると神社となる。
桜の季節とは打って変わって、人は殆どいない。駐車場には営業車が停まっていて、営業マンと思しきドライバーが休憩している。積極的に来たのは自分ぐらいなものだろう。時々スーツ姿の男性がタブレットで写真を撮りまくっている。ひょっとすると日高市の観光協会の人かもしれない。
本日は茅の輪が鳥居に取り付けられていた。その上に人形(ひとがた)が下げられていて、人形には
「蘇民将来之子孫也」
と書かれている。
素戔嗚尊が旅先の途中に宿捜しをしていたところ、蘇民将来の兄弟を見かけた。兄は貧しく、弟は裕福だった。最初に素戔嗚尊は宿をお願いしたところ、断わられたので、兄の家に宿をとる事になった。兄の方は貧しいながらも精一杯素戔嗚尊をもてなした。これにお礼をしたくて、素戔嗚尊は
「そなただけでなく、子孫たちも無病長寿でいられるようにしてやろう。疫病がこの土地に蔓延したら、次のように疫病の神に言うがよい。『吾こそは蘇民将来の子孫也』と。さすればそなたの一家と子孫たちは疫病から免れることが出来よう。」
と告げた。人形に書かれた言の葉はこの時の言い伝えに基づいている。全国で比較的よく聞かれる言い伝えである。代表的なものは以下の4つ。
京都の八坂神社(祇園社)
三重県の伊勢地域
長野県の上田市の信濃国分寺を中心とした地域
広島県(備後国と呼ばれた古い時代)
上記の伝承は京都バージョンだが、これが備後の場合はもっとグロテスクだ。流石に話が長くなるので、ここでは触れない。地域の違いも結構面白い。
茅の輪が設けられているのは時期的なものもあるが、一向にコロナに関して出口が見えないからにほかならない。
入り方は左を反時計回りに一回転、右に時計回りに一回転、最後に左を反時計回りに一回転して出るのが作法である。
但し、絶対にやってはいけないことがある。
それは茅を持ち帰ることである。これをやると参拝者の厄を吸った茅を持ち帰ることになるため、家に禍を持ち込むことになりかねないのでNGだ。
この神社は参拝後に内閣総理大臣になった方が6人もおられることから、出世社とみなされている。しかし、李氏朝鮮の天文官の末裔である李家幽竹氏によれば、今いる組織で出世させる力はあるものの、パラダイム転換を促すようなパワーはないという。コリア人は自国ひいきの方が多いが、彼女にはそれがない。この点信頼して良いのではないか。
今日は後1時間早かったら、これほど人がいないのであれば、拝観料は500円掛かるが、チャリで10分ほどの聖天院(しょうてんいん)に行っても良いかと思ったが、諦めた。こちらの建物の方が半島を感じさせるものが多い。また滋賀県大津市にある石山寺ほどではないが、石灰岩もなかなか圧巻で、埼玉県西部は石灰岩や砂利が多く、だから秩父セメントが出来たのかと思わせる。また高麗川駅では八高線が全線でディーゼルだった頃、引き込み線に砂利やセメントを積んだ貨物が見られたものである。
帰りはローソンのある曲がり角を右折し、高麗川駅を回った。
最後まで御覧頂きまして、ありがとうございます。次回は高麗川駅に着き、ちょっと鉄道レビューも記します。
(続く)
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