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2021年03月08日22:04

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キリスト教の伝統―教理発展の歴史 (第2巻) J.ペリカン 教文館

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p.128
 単意論はその出発点を、「福音書の中のすべての言明は、単一の位格に、すなわち、ロゴスの受肉した一つのヒュポスタシスに」帰さねばならない、というすでに四三一年にエフェソで承認された立場に置いた。「私の願い(意志)ではなく、御心(あなたの意志)のままに行ってください」というような言葉も、従って、単一のヒュポスタシスに適用されねばならず、同様に、「意志も本性に属すのではなく、ヒュポスタシスに属す」ことになった。…しかし、もし受肉やその他のわざが、自由意志によるわざであったのなら、それは人間性のわざではなく、ヒュポスタシスのわざでなければならなかった。…一つの意志を告白することは、「われわれの人間性が、神性によって――すなわち、罪に先立って創造されたあの本性」によって、従って、神の意志以外の意志をもたない本性によって、「担われた」ことを意味した。このように、追及された場合には、単意論者は「われわれは、キリストの中には人間的な意志があるとは言わない。なぜなら、彼の意志は彼の神性にだけ属しているからである」と認めねばならなかった。しかし、もし、意志することはヒュポスタシスにではなく、本性に属しているのだから、彼の人間性もそれ自身の意志を持ったとすれば「著名な教父たちの」言明から、「神と聖徒たち両者の一つの意志がある」ということになり、また、神と聖徒たちとは単一の本性を持つということになるが、それは冒瀆であった。
p.130
従って、まずラテラノ会議、次いでコンスタンティノポリス公会議は、二つの行為と二つの意志に関するその定式文をカルケドン信条の中に挿入し、そこで告白された二つの本性は「分割なき、変化なき、分離なき、混同なき(アディアイレトース、アトレプトース、アメリストース、アシュンキュトース)二つの本性的な意志と二つの本性的な行為とを」要求する、と宣言した。カルケドンで正統とされたレオ一世のキリスト論は、それぞれの本性がそれ自体の意志と行為とを持つことを要求した。カルケドンと同じ立場に立つことを認められようとした単意論者たちに対立して、「このように(すなわち、ラテラノ教会会議が教えていたように)信じるのを拒む者は誰であれ、聖なるカルケドン公会議を侮辱している」と宣言された。二つの意志と二つの行為とを教える方向への、カルケドンのこの明確化と拡張化とが必要とされたのは、神学と経綸の両方の根拠からであった。
…三位一体には三つのヒュポスタシスがあったが、ただ一つの神的な本質があるだけであった。なぜなら、もしそうでなければ、三人の神があることになってしまうからであった。
p.131
このように、意志は本性の属性であって、ヒュポスタシスの属性ではなく、本性的であって、ヒュポスタシス的ではなかったのである。従って、単一のヒュポスタシスと二つの本性とを持ったキリストの位格は、それぞれの本性に一つずつ、二つの意志を持たねばならなかったのである。例えば、「人間的本性」とも呼ばれることができる「人間性」がそうであるように、「本性」とは、一つ以上のものによって共有される一般的なもの、あるいは普遍的なものであるが、一方、ヒュポスタシスは独自なものであった。ある性質(例えば、人間が理性的であるということ)は存在の本性あるいはウシアに属しているが、別な性質(例えば、ある特定の人間の鼻がカギ鼻であるというようなこと)は固有のヒュポスタシスに属していた。そして、不正確ではあっても現実的な意味で、このことは、三位一体のウシアとヒュポスタシスにも適用されることができた。明らかなことであるが、この論法は、キリストにおける二つの行為と二つの意志に関する反対側の立場は、本性に属すものとヒュポスタシスに属すものとを混同することによって、三一論教理でも同様な異端的な混乱に至ってしまうことを証明しようとしていた。
…経綸のゆえに、受肉したロゴスは、複合的な本性を持つものとしてではなく、複合的なヒュポスタシスとして見られねばならなかった。もし彼が完全な人間的存在であったのなら、人間的な活動や人間的な意志のように、人間的な本性に属すいかなるものにも、どうして欠けることがありえたであろう。その人間的な本性であれ、神的な本性であれ、もし彼がその活動でも意志でも、完全でなかったとしたら、彼は完全な神と人間ではなかったことになる。第三回コンスタンティノポリス公会議から発せられた皇帝の公式文書も、教会の公式文書も共に宣言していたように、彼の完全な人間性には、一つの人間的な精神――その力によって「われわれがわれわれの意志作用と理性作用を行う」人間的な精神――が含まれねばならなかった。
p.132
従って、彼は人間的な意志を持っていたに違いなかった。もしそうでなければ、受肉した方の肉、彼の人間性は、「意志を持たず」(アテレートン)また「行為なきもの」(アネネルゲートン)であったことになってしまっただろう。しかし、この両者の宣言文は更に、キリストの人間的な意志は、人間的な意志として完全であっただけでなく、完全に「神化された」ものであった、と語っていた。このことは一つには、人間が行為すること・意志することはすべて、創造者にその源泉があり、創造者からその力を得ている、という一般的な法則を指していたが、それは、他の人間の中の単なる一人の人間ではなく、「普遍的な人間」としてのキリストの人間的な本性の特別な質でもあった。
 その場合、三一論とキリスト論とを一貫性をもって主張するためには、「われわれが二つの本性を認めたように、二つの本性的な意志と二つの本性的な行為とを承認する。経綸の後のキリストにおけるどちらかの本性に、意志と行為が欠けていると宣言するようなことをわれわれはしない」ことが要求された。…単働論者は「奇跡も苦難も共に、単一の行為によって遂行された」と言おうとしていたのであろうか。神的な本性と人間的な本性の統一のゆえに、「混同なしに結び付けられた本性を混同しないために、われわれはすべての本性的な行為を告白する」が、しかしそれらはすべて「一人の同じキリスト・御子から、発出」した。ここでも、行為は単一である神的な本性に属し、三つのヒュポスタシスのそれぞれに属しているのではないから、三位一体には単一の行為がある、と指摘されねばならなかった。神的なものであれ、人間的なものであれ、本性があるところには、それにふさわしい行為がなければならなかった。しかし、二つの本性の教理が、属性の交流に従って解釈されねばならなかったように、二つの本性の教理の必然的な結論と思われた二つの行為という教理も、この視点の中で見られねばならなかった。
p.133
二つの行為を宣言することによって、更に進んで、キリストは「肉体的な方法で神的な行為を遂行し、――(また)神的な方法で人間的な行為を遂行した」と言わねばならなかった。
 二つの意志という教理も同様に、二つの本性という教理の必然的な結果であった。…そのようなことではなく、むしろ、キリストの人間的な本性の人間的な意志は、彼の神的な本性の神的で全能の意志に完全に服していた。二つの本性があれば、二つの意志がなければならなかった。具体的に言えば、キリストの人間的な本性とわれわれの人間的な本性おとの違いは、処女への受胎という「彼の出生の新しい様式」にあった。それ以外のすべての点で、それはわれわれの本性に似たものであり、従って、一つの意志を持った本性であった。…キリストの人間的な本性の中に、神的な意志とは存在論的に区別される本性的な意志(ト・フュィコン・テレーマ)と、神的な意志と機能的に同一である熟慮的意志(グノーミコン・テレーマ)との区別を行ったことは効果的であった。「キリスト教の伝統を詳細に展開することに対して、(彼はそれを名前の知れない一人の修道士によるものとしているが)証聖者(マクシモス)が行った最も重要な貢献の一つである」この区別に加えて、本性的な心理的機能としての意志と、機能としての「意志に服す、意志されたところのもの」としての意志との間の、それに関連した区別があった。こうした区別は、その両者がその対象で衝突するかもしれない、という考えられない可能性を考慮に入れねばならないと思うこともなく、神学者たちが二つの意志を措定するのを可能にした。
p.134
 しかし、この定式化の中の両性の統合は、美的あるいは知的な均衡によるものではなかった。それは実際、「救済論的必然性として考えられた不均衡なキリスト論」であった。…なぜなら、結局、罪の責めを負うべきものは、とりわけ、人間的な意志だったからである。…一つの単一の目的に定められた一人の単一の行為者に、二つの本性的な行為と二つの本性的な意志という思想を強要する際には、根本的な救済論的考慮が働いていたのである。しかしこの救済論的な一貫性は、福音書の中で叙述されている姿からはるかに隔たったキリスト論的抽象化、という手段によって得られたように思われたので、「実際問題としては、ビザンティンの宗教は、福音書の歴史的なキリスト抜きでも構築されえたであろう」。そうではなかったことを示そうとする努力、また、「キリストの教義」は、事実「キリストの像」に忠実であったことを示そうとする努力が、この発展の結果を体系化した世代の仕事であった。
p.136
われわれが見てきたように、ここで採用されている神学と経綸との区別は、キリスト論論争におけるすべての党派が共有した区別であった。ネストリオス派のババイは、その区別を「ロゴス」や「キリスト」などの称号の違いを説明するのに用いた。単性論派の神学者たちはそれを、経綸の結果は「神学によれば」永遠から存在するロゴスなる神によって肉が担われたことによる複合的な単一の本性である、というその論議の出発点とした。
p.137
技術的な言い方をすれば、例えばネストリオス派のティモテオス一世が語ったように、カルケドン派と非カルケドン派とは、三一論の正統教理は共有したが、受肉の統一の教理で異なっていた、と語るのは正しかった。しかし、カルケドン公会議の後に明らかになっていたように、後者の教理を深く考察すれば、前者の教理を再考察しなければならなくなった。従って、単意論が「新たな三神論」と攻撃されたときには、それは単なる論争上の修辞ではなかったのである。なぜなら、受肉したロゴスにおける意志というキリスト論的な問題は、神の内部におけるロゴスの意志と父の意志との関係という問い――それは、三一論的な問いである――へと進んだからである。
p.138
三位一体には一つの本性があったが、ヒュポスタシスは三つであった。キリストの位格には二つの本性があったが、ヒュポスタシスは三つであった。…三位一体には一つの行為があったように、単一の意志があった。「三つのヒュポスタシスの一つの本性的な意志があり――従って、三つのヒュポスタシスは三人の神ではなく、一人の神」であった。その場合、行為と意思とは父、子、聖霊のヒュポスタシスに属していたのではなく、三者に共通の本性に属していた。「一つの本性を」持っていた方は「また、一つの意志と一つの行為とを持っている」。他方、二つの本性のあるところには、それぞれの本性に一つずつ、二つの意志と二つの行為とがなければならなかった。もしキリストに単一の意志と単一の行為があったとすれば、それは、その意志と行為とがヒュポスタシスに属すことを要求したであろう。三位一体に適用された場合には、これは「三つの神的なヒュポスタシスは、三つの神性と三つの行為とを想定することになるだろう」ということを意味した。
p.139
「われらのために十字架に付けられたあなた」という句が付加されたのは、十字架の苦難の中でこの一つのウシアと主とを意味することがあったであろう。ネストリオス派がこの付加を冒瀆として拒否したのは理解できる。なぜなら、それは、キリストにおける神的なものと、人間的なものとの区別を曖昧にすると思われたからである。ヤコブ派は三聖唱の中に三位一体の告白を見たが、しかし、ロゴスなる神の一つの神的な本性は、「われらのために十字架に付けられたあなた」が、神の不受苦性に不正をなすことなしに語られえるような仕方で、それ自身のうちに肉を取り上げた、と主張した。…
…一つは「二つの本性から」という句で、それはヤコブ派の教理では、「二つの本性において」という句と鋭い対立関係に置かれていた。後者が、受肉による統一の後にも存続した二重性を意味したのに対して、前者は、受肉によって起こったことは、「混同のない複合と統一」であったことを明確にした。
p.140
このように、カルケドン派神学者の間では、「二つの本性から」と「二つの本性において」とを同義語として受け入れるのが通常になっていたし、その際、「おいて」は「から」が、統一によって二重性が廃されたという含意を持つことを防いだのである。
 同様な救出が、ヤコブ派の単性論教理の特徴そのものであった「ロゴスなる神の受肉した一つの本性」にも実現された。…マクシモスはこの句を、キュリロスとネストリオス派とは「二つの本性という言い方を、その相違を認める点まで」共通にしたが、「統一の告白」までは共通にしていないことを意味すると受け取った。彼は更に進んで、キュリロスの定式は、統一の前には二つの本性があったが、それは統一の後でも二つのままであったことを意味し、その定式は従って、「統一に従った――遠まわしの言い方」であって、二重性の否定ではないと説明した。
p.141
 こうした定式の主要な強調点であった二つの本性の統一の直接の帰結は、『教父たちの教理』によれば、「不信仰なネストリオスの(教説とは)反対に『キリスト』という名前は両方の本性を指し、キリストは神であって、処女は神を生んだ者(テオトコス)である」ということであった。このことが含み持つ意味合いは、次の章で――「キリストがその本性の二重性のゆえに『二重』であると教父たちによって呼ばれ、他方では、そのヒュポスタシスあるいは位格の単一性のゆえに、『二重』とは呼ばれていない」ことを証明している次の章で――考察されていた。…
 「『キリスト』という名前は一つの本性を示しているのではなく、複合的ヒュポスタシスを示している」というマクシモスが語った公理は、教父たちの用法の支持がなかった。これは実際、「キリスト」という称号は厳密な言語表現では、いかに用いられるべきかに関するネストリオス派の観点であった。ヤコブ派も、その称号は厳密に言えば、受肉の経綸に属していると見た。三つの立場の違いは、単一性と二重性の問題にあった。
p.142
その対抗者に対するカルケドン派の立場にとって基本的だったのは、二つの本性の相違が継続していることと、それらの本性の不可分性とを同時に主張することであった。いわゆる単性論者たちとの論争と、カルケドン派内部で生じた新しい争点は、大きな関心の的であったが、ネストリオス派の教説の体系――『教父たちの教理』もそれを示しているように、特に、処女マリアに対するテオトコスという称号の否定――を反駁する必要性も依然としてあった。(単意論は、自分の教説はネストリオス派のその思想とは全く違っていると主張したが)このことは、ネストリオス主義に対立してキリストの位格の一致を支持する立場を強化する意図を持った理論である単意論が、神的なものと人間的なものとの間の意志の統一(タウトブーリア)というネストリオス派の思想を教えることになってしまう事態を、ますます首尾一貫しないものと思わせることになった。
p.143
三位一体では、本性あるいはウシアは一つである者を指し、ヒュポスタシスあるいは位格は一つ以上のものを指した。キリストの位格では、本性あるいはウシアは一つ以上のものを指し、ヒュポスタシスあるいは位格は一つのものを指した。事態をもっと複雑にしていたのは、正統的な伝統でも、ウシアとヒュポスタシスとが時に同一視されていた、それ以前の用法の歴史であった。ネストリオス派の伝統もヤコブ派の伝統も、それぞれに独自な用法を持っていた。前者はヒュポスタシスと位格とを区別して、キリストに一つの位格と二つのヒュポスタシスを帰した。後者は本性をヒュポスタシスと結び付け、カルケドン派のように、複合的ヒュポスタシスだけでなく、複合的本性もキリストに帰した。
…単純に定義すれば、一つのヒュポスタシスはその属性を持った一つのウシアであった。しかし、キリストは複合的ヒュポスタシスであって、その属性を持った複合的ウシアと定義されねばならなかった。もう一つの単純な定義は、ヒュポスタシスは個別なものであるが、本性は一般的なものである、と語ることであった。しかし、これら二つの定義は、「ウシアとヒュポスタシスとは別なものであった、――ウシアとは、同一のヒュポスタシスの共通の集合的な様式を意味する」という三一論の用法によって規定される必要があった。…しかし、一つの種類のヒュポスタシスが別な種類のヒュポスタシスと比較された場合には(例えば、人間と牛とが比較された場合のように)、その違いはヒュポスタシスの違いではなく、本性の違いであった。
p.144
その結果、ネストリオス派が教えるのとは違って、キリストの位格には、一つの位格に二つのヒュポスタシスがあるのは、不可能であった。なぜなら、本性とヒュポスタシスとは同じではなく、彼は複合的ヒュポスタシスで、二つの本性を持っていたからである。また、ヤコブ派が教えていたのとは違って、一つのヒュポスタシスに一つの本性があるのも、不可能であった。なぜなら、本性とヒュポスタシスとは同じでなく、受肉において「神のロゴスご自身が、肉に対して実体存在の関係に立って、肉のヒュポスタシスになり」、その結果、依然として一つのヒュポスタシスであるが、二つの本性があることになったからである。…
 三一論のその他の用語との関連で、ヒュポスタシスはいかに理解されるべきかが決定されることによって、主題は「神学」から、「キリストは神であると同時に人間である。そして彼は一人である」という命題――「教父たちが伝統によって伝えたような、経綸の在り方、あるいは神的な受肉、受難、陰府への下降の在り方」の考察を含む命題――へと移行して行くことが可能となった。この考察は、いわゆる神性受苦論的な定式である「神性は肉という手段によって、苦しみを受けた」とか、「神は肉を通して苦しみを受けた」というような発言を批判的に検討することを求めた。このような定式をめぐる対立から、正統主義は、属性の交流――それによって、それぞれの本性が受肉したロゴスの具体的なヒュポスタシスに、その特徴的な属性を伝えた属性の交流――について、いっそう注意深く語らねばならないことを学んだ。
p.145
なぜなら、神性には苦難や死を味わうことは不可能だったし、不可能のままだったからである。受肉したロゴスの具体的な複合的ヒュポスタシスが、苦しみを受け、死んだのである。言い換えれば、神である方が苦しみを受け、死んだのであるが、しかし、神性が苦しみを受け、死んだのではなかったのである。…なぜなら、属性の交流は、どちらかの本性の属性が、別な本性それ自体の述語となりえることを意味したのではなく、「われわれが彼のヒュポスタシスについて語る時には、両方の本性を意味する名前をそれに与えるのであれ、そのうちの一つを指す名前を与えるのであれ、われわれはそれに(ヒュポスタシスに)依然として、両方の本性の属性を帰す」ことを意味していたからである。
 属性の交流はある意味では、ヤコブ派がその「単一の複合的本性」という思想によって達成しようとしたことを、正統的カルケドン派が行った仕方として解釈することができるであろう。ヤコブ派のその思想に答えて、『教父たちの教理』は「創造されないものと創造されたものとの統合である、キリストの単一の複合的本性という言い方はできない」と断定した。

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女性だけの特殊部隊がISに立ち向かう 『レッド・スネイク』公開決定&予告解禁
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 IS(イスラム国)と女性だけで構成された特殊部隊の戦いを描く、実話を基にしたアクション映画『Sisters in Arms(英題)』が、邦題を『レッド・スネイク』として4月9日より公開されることが決定。予告映像と日本版アートワークが解禁された。

 本作は、国、文化、アイデンティティ、宗教、伝統などをテーマに、女性たちの戦いを描く戦闘アクション。

 2015年1月7日、フランス・パリの風刺週刊紙シャルリー・エブドの編集部をイスラム過激派テロリストが襲撃し、風刺漫画家や記者ら合わせて12人を殺害。同紙に寄稿していたライターでもある本作の監督カロリーヌ・フレストは、この「シャルリー・エブド襲撃事件」で同僚を失う。フレスト監督はその経験から、長編劇映画の初監督作品となる本作で、女性問題と過激派に関するものをテーマに選んだ。

 主演のザラには、両親がクルド人であり、父親はクルド人の大義のために戦った著名なジャーナリストであるディラン・グウィンを抜てき。そのほか、イギリス出身のアミラ・カサール、イタリア出身のマヤ・サンサ、ポップシンガーとしても活躍するアルジェリア系フランス人のカメリア・ジョルダナ、『君の名前で僕を呼んで』でティモシー・シャラメ演じるエリオに思いを寄せるマルシア役が記憶に新しいエステール・ガレルなど、各国の名だたる女優たちを起用している。

 2014年8月、ISが突然、イラク西部の少数派ヤジディ教徒の村を襲った。ザラは父親を殺され、弟と生き別れ、自身は奴隷としてISのメンバーに売られてしまう。そんな中、ザラはISのメンバーの元から逃げ出し、さまざまな国の女性だけで構成される特殊部隊「蛇の旅団」に救われる。ISは古い言い伝えから女性に殺されると天国に行けないと信じているので、女性だけの部隊は恐れられていたのだ。そしてザラは、クルド人を支援している連合軍に属する「蛇の旅団」に加わり、兵士になるための厳しい訓練を受ける。訓練を終え、コードネームを「レッド・スネイク」としたザラは、“姉妹たち”と共に前線へと赴く。果たしてザラは、無事に弟を救うことができるのか。

 予告映像は、ISが村を襲撃し、ヒロインのザラが家族を失う場面から始まる。続いて、ザラをはじめとする女性たちが「蛇の旅団」のメンバーとして訓練をこなす様子や、勇ましく戦いを繰り広げる姿が迫力の映像で描かれていく。最後は「女が立ち上がると、歴史から消される。社会からも消される。家に帰され、奴隷になる。今回は違う」という印象的なセリフと共に、女性兵士たちが一斉に反撃する場面で幕を閉じる。

 日本版アートワークは、過酷な戦場を背景に、勇ましい表情の女性兵士たちが銃を手に立ち並ぶ姿を描いたもの。その上には「私は戦う―彼女たちと共に」という決意のコピーが添えられている。

 映画『レッド・スネイク』は4月9日より全国公開。


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