mixiユーザー(id:17922359)

2020年11月24日10:42

18 view

フェイスブック投稿から

聖書の言葉を分かち合う人は今まで例がない。伊藤節男伝道師と付き合っていた時は僕は聖書は読んでいなかったし。相手は女性だが、今までのどの友情や恋愛にも見られない、独特の気持ちだね。僕は寂しさは全然感じていない。聖書の言葉を書く事により、神が僕の持つ寂しさを消してくれているわけだ。また、相手は喜んでくれているようだが、僕は何一つ相手を喜ばしてもいない。僕の書いた聖書や歎異抄の言葉を読み、相手も神様から喜ばしてもらっているわけだし、もし、彼女の心に寂しさがあれば、同様に神様が寂しさを消している事だろう。互いに相手に何もできない。人間は無力だから当たり前。
  以上からも思うが、現代の恋愛感情は相手に「寂しさの消去」への期待の気持が非常に含まれているのではないか。だから、歌謡曲みたいに、燃え上がる・激しい気持ちも生ずる。何も対異性だけではない。同性の友人に対しても、そのようなものを期待する人たちが多い。僕も求められた事がいくらでもある。一方的に求める例もあれば、双方求め合う例も見てきた。無論、同性愛とは異質である。例の教会関係では非常に多かった。でも、異性間、同性間と、むしろ、求めれば求めるほど、すれ違いが生自て、中には、仲良しだった人たちがケンカ別れした例も。人が人の寂しさを消す事は不可能である。寂しい人には聖書や歎異抄の言葉を送るのは良いが、付き合ってあげたり、慰める事は逆効果だと思う。
  因みに、「寂しさ解消」目的は恋愛や交友だろうか。やり合う事は自由だが、どう見ても恋愛や交友ではないだろう。


3 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する