「でもね、人の心だけは見つめようと思う。
好きなやつも嫌いなやつも今会えてるのって奇跡だから」
怠い怠い怠い土曜の朝、
或る画面のコメントで見かけたこの言葉が、妙に沁みた。
不意に妙に・・・沁みた。
感情がざわつく感じがあった。
他者の色々な感情・・・怒りや悔しさや無念、好きとか嫌いとか、
楽しいんだナとか辛いんだナとか、
そういうのを日々、我が身に浴びている内に、
自分の感情というものが、黙り込んでいた気がした。
「人の心を見つめ続ける」と言う人程、
実は人の心が見えていないというパターンもある。
私自身もまた、そのパターンに陥る事があっても、
必要上含めて、どうにか見つめようとはしているのだナ・・・・・・
と、自分の心を見つめてみる。
少なくとも、
得体の知れぬ相手の心を想像せずに話す事は、
また想像出来ない場合も、相手の心の存在を無視して話す事は、
あまり好む方ではない。
やってしまう事もあるが。
「人の心を見つめ続ける」とは、
或る意味、孤独の道だと思う。
関わり合いながらも「見つめる」のだから。
若い頃、「つめたやさしいよね」と言われた事がある。
もともと、そういう面はあるのかも知れない。
「見つめる」為に、自分色のサングラスは外す。
出来るだけ透明の容器になって、
そこに流れ込んで来る他者の感情の液体を「見つめる」。
でも、自分色のサングラスを外してばかりだと、
いつしか自分の感情は、黙り込みがちになる。
うっかりすると、こっそり自分自身で見つめてやる事も忘れる。
自分の感情は底をついたみたいな感覚になる。
そういや何か、「ZENタイルsolo」とかっていう、
ソロプレイ用のアナログゲームが、あるらしい。
一日の時間を表す物差しに沿って、
漢字一文字で感情を表したタイルを選んで配置して行き、
今日一日の自分の感情の流れを振り返るという勝敗無きゲーム。
「自分の心を見つめる」には良きツールかも・・・・・・
って、これは広告ブログなんか〜い。
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「でもね、人の心だけは見つめようと思う。
好きなやつも嫌いなやつも今会えてるのって奇跡だから」
この「好きなやつも嫌いなやつも今会えてるのって奇跡だから」って感覚こそ、
「見つめる」という構えであり、孤独の道の気がするのである。
独り占めしようとしたり甘えようとしたり、群れようとしたり、
その為には邪魔しようとしたりする、
そういう「親しさ成分」は捨てる道である。
「親しき仲にも礼儀あり」よりも、もっとである。
人によっては、多分それなりにエネルギーを要する構えでもある。
でも、そうした孤独の感覚を肩に提げて歩いてこそ、
「今会えてる奇跡」も感じられるのであろう。
孤独を避けたくなると、
「嫌いなやつ」は「憎いやつ」に転じてしまうかも知れない。
「嫌いなやつ」だって、何かくれたりするのに。
孤独を紛らわす事は出来ても、
人一人一人が本来孤独な存在であるとするならば、
その孤独な心を「見つめる」事は、
「好きなやつも嫌いなやつも今会えてるのって奇跡だから」という感覚は、
人の孤独というものを受容した上での、
現実的な距離感をとった一体感の状態(?)、でもあるのかも知れない。
人は「見つめる」だけでなく、「見つめ合う」事も出来る。
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