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2020年08月17日03:04

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満州国

僕の母親は満州・大連で生まれ育った。と思っていたら戸籍には東京市新宿生まれとなっていたんだが、東京に戻って分娩したのか、出生地だけ叔父が居た新宿にしたのか、戦後帰国してから変更したのか(そんな事が出来たのかどうか、、)判らない。

彼女は大連の生活を楽しんでいたようだ。中国人やロシア人が沢山居て、家のお手伝いさんは中国人、パン屋はロシア人とか、日本の植民国家ではあるが国際的だった。彼女の父親は血気盛んな滿鉄社員で、地方の小さな駅長を転々として勤めていたので大連に居る事は少なかった。彼女の母親は専業主婦で、夫が留守の一家を支えていた。気象の強い人で(僕のばぁちゃんですが、厳しかった)母が女学校に進学する際には弥生高女に入れなければ家から追い出すと包丁片手に迫ったらしい。そのせいかどうか、母は弥生高女に入学。その仲間とは死ぬまで交流が続いていた。これは父親が士官学校時代の友人達と死ぬまで交流していたのと同じだ。

満州では様々な政治的な駆け引きや工作が行なわれていたが、一般人の生活は日本本土よりも自由だったようだ。どんどん窮屈になっていた日本から新天地を求めて出て来る人間が多かったらしい。冬は寒いので庭に水を撒いておけば翌日にはスケートリンクが出来ていた。そんなせいで母は後年もスケートが好きだった。

ただし中国に於ける戦局も悪化の一途を辿り、最終的にはソヴィエト軍が国境を越えて押し寄せて来た。そういった中、一番先に逃げ出したのは陸軍の将軍達であったといのは有名な話らしい。丁度僕の母は東京の大学に行き始めた時期だった。彼女の母は独りで何も持たずに何とか日本に戻って来た。父親は丁度ソ連国境の駅、綏芬河(ポグラニチニィ)の駅長をしており、消息は全く不明だった。

彼の消息が判ったのはようやく昭和30年、祖父の元で働いていた日本人がソ連での捕虜生活から帰国して、「ソ連の侵攻を見て駅に火をつけ、自害した」という証言がお役所から死亡証明として送られて来た。祖母はそれまで待っていたのだろう、帰って来るのを。僕の母親も待っていたのかもしれない。戦後というのはそういう時代でもあった。そういうどうしようもなく切ない気持ちを抱いて生きて行く人達の人生。

戦争が起きて(戦争を起こして)、金持ちになる人間は居るかもしれないが、幸せになる人間は皆無だろう。笹川良一のように、恥も外聞も無く、母親を背負っているバカでかい自分の絵を描かせて庶民の金で作った博物館に展示して、自分に嘘をつき続けて生きて行けるような人間が平気で戦争を起こしたり戦争で儲けたりする。
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