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2020年08月16日18:07

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南方戦線

僕の父親は普通より1年早く中学を卒業して陸軍士官学校に入った。軍人になる理由として「どんな職業よりも給料が良い」などと言っていたが、本当にそう考えていたのかどうかは謎。卒業時に希望を聞かれた際に、寒いところは苦手なので出来れば暖かいところへ行かせて欲しい、と言ったらしい。実際に寒いところでは使い物にならないと思われたのか、そういう事を言うならうんと暑いところへ行かせてやろうと思われたのかは判らないが、鹿児島の連隊に配属になり、ちょっとの間遊ぶ時間をもらってから、南方戦線へ。

南方の戦況とか作戦とかは全く知りませんが、父親が面白オカシく語っていた事を繋げてみると、大体以下のような感じだったらしい、、時空間的に間違ったきじゅつになっているかもしれませんが。

船でラバウルに着くと、再びそこでちょっと遊ばせてもらって、そこからガタルカナル島へ。米軍が上陸して来ると父親の仕事は将校斥候だったが、日本軍はあっというまに激減、最もひどかったのが補給(軍装備と食料)が全く追いつかなかった事。戦闘でなく餓えと病気(マラリア)で死んだ将兵の数は凄いらしい。ガタルカナル撤収後1943年からブーゲンビル島へ。

ブーゲンビルでは山本五十六が乗った機体が撃墜された際捜索に出た。ここもまた島は高い山がありジャングル。米軍が上陸すると戦闘を繰り返しながら日本軍はあっという間にジャングルの中に逃げ込んで、這いずり回る日々だった。ここでも補給が途絶え、武器弾薬が消耗枯渇し、食料は自分達で探し出さねばならなかった。米軍はどこに日本軍が隠れているかを知っていたが攻撃はしなかったらしい。降伏するか餓死するのを待っていたのだろう。日本の兵隊がなけなしのタマを1発米軍の方向へ撃てば100発のお返しが来た。兵隊は飢餓とマラリアでやせ細り体力を無くして次々に死んで行った。ヘビでもトカゲでも何でも食べなければ生きて行けなかった。父親もマラリアで数ヶ月寝たきり状態になったが、親身な下士官の世話でなんとか生きのびる事が出来た。

最終的に(8月15日)本軍は降伏、解体され捕虜となるが、兵隊を日本に帰還させるための船が日本にはもう無かった。父親は終戦から約一年後に帰国する事が出来た。

誰にでも判ると思うが、この南方戦線(ここだけではないが)、能力を完全に超えた作戦(というか戦略の無さ)で、余りにも無謀としか言いようが無い。タマが無ければ体で、精神で戦え!というような馬鹿な事を実際にしていたと思うと信じられない。しかも海軍と陸軍の間には頻繁に大きな思惑の差があってシステムとして機能しなかった。日本でノウノウとしてる将軍達は兵隊の死など屁とも思っていなかった。

今でも日本精神で勝つ!みたいな事を言って腕を振り回す某首相がいるけれど、ならば彼に一度ブーゲンビルにでも行って自活してもらいたいものだ。まぁ原爆資料館にさせ行かない(行けない)人だから無理でしょうけどね。
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