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2020年07月26日22:11

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殺意 ストリップショウ

最低三人くらいは役者がいないと僕は主観的過ぎて疲れちゃうと痛感した。

寝るかも、と思ってたが、やはり寝た。

二人芝居でも駄目だ。

きっとやはり三人以上で芝居の場を作ってくれないと、役柄の主観的な部分が強すぎて拒絶反応が出るみたい。

まあそれは別の話。

マスクに消毒液、フェイスシールド持参で行ったシアタートラムは、スタッフは気を配ってたようだが(全員フェイスシールドしてた)、半分以下しか埋めてない客席は静かに落ち着いていた。

三好十郎の4時間の一人芝居を二時間でというので絶対に観たい舞台だった。

しかし「炎の人」と同じで、作品によるムラはしょうがないのかな。

1950年の話で、イデオロギーに市井の人でさえ強く支配されていることを考えると、現代の、何に対しても距離を保つ自分には違和感を感じる。

でもどうだろう。

僕が強く心酔していた小沢健二がチケット転売に強い拒否表明をした販売方法を選択した時、つい数年前まで「どんな手を使っても来てください」と言ってた輩が、しかも多分、自分も若い頃にダフ屋でチケットを買って外タレのとか観てるくせに、と思うと、小沢自身に白けてしまったことと同様の感覚をこの芝居に観ていいのだろうか。

(ここで転売行為は違法って話はなしで。すみませんが)

その僕の個人的な例はただの趣味の話でしかないが、二次大戦前後の感覚からすると思想の転向、再転向は人の生死に直結するから、それは観ながら想像するしかないんだけど、余りに簡単にシステムを信じすぎてやしないか。

でも信じすぎじゃない?って思うこと自体がこの日本という日和見的な流れの大筋に流されちゃって飼いならされてることの証明になるのかもしれない、と思うところもあって。

だから一生の中で一回しか(原発反対の国会議事堂前の、だった)デモにも参加したことがない。

でも主人公が気づいたとおり、どんなに素晴らしい思想の持ち主だって卑小な生活の部分はある訳で。

人間一人ひとりはそんなに偉いもんじゃないですよって考えられるようになったこと自体が1950年より人間が進歩してるところなんだろう。

そう考えだすと、フェニミズム(当然そこにはメンズリブを含む)や地球温暖化問題、原子力の問題等々、幾らでも想像は膨らんでくる。

僕の世界を形どる、さまざまな人々がどう思ってるかはともかく、僕自身がこうやってこの作品を発露にいろいろ想像できる機会を得たことはいいことだなって思えた。

やはり三好十郎の作品はこれから先ももっと観ていたいし、パフォーミングアーツ鑑賞はやはりやめられないな。
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