今度はパンフも戯曲も買った。
前回よりもきちんと舞台と向き合い、より深く理解した。
台本より抜粋(略あり)
エミ―「あなたが言うような方向に世の中が変わったら、将来、人はみんな相手を捨てるようになって、一人の人間が四人、五人とかの人と一緒になるけど、するすると人生を滑り抜けていくだけで身を落ち着けることも、ゆっくりすることも、本当に難しい時間のかかることは、何も経験することができないのよ。
うちと呼べるところもなく、安らげる場所も一緒に安らげる相手もなく、自分のことを分かっている人もいない、それってどうなの、それってとても悲しい、とても孤独、とても満たされない」
この問いは、皆、独りでいて、自分の心の声だけを聞き、それに従うような世界になったと想像する時に最初に思う疑問。
それを初めて明文化した言葉。
しかし、何故ノラが独りでいることを選んだのか、その問いに答える彼女の独白も、後の方で芝居の中で用意されている。
台本より抜粋(略あり)。
ノラ「一人で暮らしても、何をしても、頭の中で声が聞こえた。
あなた(トレヴィル)の声みたいだったり、父の声みたいだったり、牧師さんの声みたいだったり、私の知ってる色んな人の声みたいだった。
私はいつも頭の中でその人がどう思うかを確かめた。
私の頭の中にいる人なだけだったけど。
それで決めたの、それが続く限り沈黙の中で暮らそう、何も言わず、人と話をしないでおこうって。
そしてとうとう他の人たちの声を思い出せなくなった。
頭の中で声がしなくなった。
自分の声以外、それか確かに自分の声と思えるもの以外は。
ほとんど二年かかった。
二年間の沈黙」
二年間、独りでカウンセリングをするようなものだ。
その苦しみを想像するだけで恐ろしい。
独りを選ばなければいけない必要が、彼女にはこうして強く存在する。
それはそこから脱却した現在でも続いている。
人は孤独を恐れる。
しかし自分の本当の声が聞きたくないだけではないか?
他人の存在が内部に強くある、今現在の中途半端な自分の声と戯れていないと怖く思ってしまうだけではないか?
最初のエミ―の疑問に到達してしまうことだけを恐れているだけじゃないか?
自分がモラルとか、常識から逸脱してしまう恐れがここにはある。
誰とも心を通わせられない世界に生きるのかもしれないという事実に対する恐れがある。
何故この作品が楽日前日の、土曜ソワレで3分の2しか客が入ってないんだ?
何か宣伝、間違ったんじゃないか?
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