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2019年08月29日18:48

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妙高紀行10 斐太神社 / 天神堂古墳群

 20日火曜日は、マイミク美女のpotiサンと共に斐太(ヒダ)歴史の里総合案内所を出た後、隣接する斐太神社〔延喜式内社〕〔郷社〕へ向かいました。
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https://www.google.com/maps/place/%E6%96%90%E5%A4%AA%E7%A5%9E%E7%A4%BE/@37.0543682,138.2328504,17z/data=!4m12!1m6!3m5!1s0x5ff672386dd5ede9:0x2820020da3b261c2!2z6Kaz6Z-z5bmz5Y-k5aKz576k!8m2!3d37.059853!4d138.2335652!3m4!1s0x0:0x16e4bf615433423b!8m2!3d37.0535631!4d138.2358659
 雨は一層酷くなり、参道は川の如くなっていました。
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 斐太神社は宮内集落西方の丘上、青田南葉山から派生した枝脈の東麓に東面して鎮座する神社で、主祭神は大国主命(オオクニヌシノミコト)です。
 社伝によれば大国主命が息子の事代主命(コトシロヌシノミコト)と建御名方命(タケミナカタノミコト)を従えて当地を訪れ、住民に稲作の業を教える等の国土経営にあたった故事に因んで創祀されたとされます。その折大国主命は当地を越国(コシノクニ)の「日高見(ヒダカミ)の国」と命名した事から「斐太」という地名が生まれとされ、大国主命と建御名方命は山野の開拓や田畠の開墾に当たり、事代主命は沼沢や河川を治めて水路を開削したとされています。
 当初は山上に鎮座していたと伝えられ、矢代川の支流である内川の右岸、妙高市飛田字屋敷添には里宮があって拝殿が建っていたとされます。旧社地は神社西方の鮫ヶ尾城跡〔史跡〕北方にある宮沢という地が有力視されていますが、現社地への遷座の時期・事情は不明です。隣接する斐太遺跡〔史跡〕・観音平古墳群〔史跡〕・天神堂古墳群〔史跡〕を築造した豪族が奉戴した神社だったと考えられます。
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 大同3(808)年の『大同類聚方』によれば、当時、楲田(ヒダ)明神と呼ばれていた当社に大国主命によって処方が伝授された「佐美豆薬」という中風の特効薬があったとされ、また同薬は頸城(クビキ)郡の少領(スケノミヤツコ)である大神(オオガ)氏の家伝薬でもありました。
 延長5(927)年の延喜式神名帳では越後国頸城郡の小社に列し、その際に楲田明神から斐太明に改められた模様です。また、事代主命は河原の鎮護として矢代川上流の岡沢山の奥、建御名方命は青田南葉山山頂に祭られていました。
 承久3(1221)年、承久の乱に敗れた順徳天皇が佐渡国へ配流された際に京都との連絡役として藤原氏一門の下級公家が信濃国更級(サラシナ)郡倉科(クラシナ)村(現;長野県千曲市倉科)へ下向、土着して倉科氏を称しましたが、その後、越後へ移って当社の神職を世襲する事となりました。
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 戦国時代には上杉(長尾)氏の崇敬を受け、当社西方の山上に鮫ヶ尾城が築城された際には当神社を近郷128箇村の総社と定め、宮内・神宮寺・乙吉・籠町・雪森・青田・稲荷・十日市・飛田の各村を神領として寄進したとされます。天正2(1574)年には上杉謙信が事代主命を祭る矢代明神を合祀し、建御名方命を祭る諏訪明神もこの頃までに合祀されていたため,三神は鮫ヶ尾城の鬼門鎮護の神として崇められました。
 天正7(1579)年の鮫ヶ尾城落城の兵火に罹って炎上して再建されましたが,明暦2(1656)年にの火災で社殿と共に古文書類も焼失したために詳しい由緒沿革は不明になってしまいました。矢代明神が相殿に祀られている事から当神社を「矢代さん」と俗称することもあり,天照大神(アマテラスオオミカミ)が祭られていた時期もあった様です。
 天和3(1683)年迄に社殿は再建され、幕府の検地で5石3合の除地を与えられます。当時の当地は天領だったのです。文化6(1809)年に当地が榊原氏高田藩領となると、歴代藩主の崇敬を受けました。なお、宮内地区に南接する神宮寺地区は当社の神宮寺があったために付けられた集落名ですが、神宮寺は幕末に高田城下の寺町へ移転されました。
 明治6(1873)年に村社へ列し、昭和17(1942)年11月3日に郷社へ昇格、続いて昭和20年11月3日に県社へ昇格する事が決まっていましたが、敗戦のために沙汰止みとなってしまいました。昭和33(1958)年に火災で社殿が全焼しましたが、再建されました。
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 梁間三間桁行四間の瓦葺妻入切妻造の拝殿です。参道階段が滝の様になっていました。
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 梁間三間桁行三間の瓦葺妻切妻造の本殿です。大社風神明造と称しています。
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 伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)を祭る境内社の雁田(カリタ)神社です。
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 続いて西隣の天神堂古墳群〔史跡〕へ向かいました。
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 5世紀末〜6世紀後半にかけての古墳群です。
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 大きく三群・計188基から構成されます。
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 最高所に位置する1号墳は方墳で、その他は殆どが円墳です。
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 規模は5〜20m程度が大半ですが、6号墳は直径20mを上回ります。
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 昭和32(1957)年、東京大学によって数基の古墳の発掘調査が行われ、鏡・直刀・鉄鏃・土師器等が出土しましたが、葺石はどの古墳でも確認されませんでした。
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 傾向として高所にある物が古く、下位にあるものが新しいんですが、麓近くに横穴式石室を持つ終末期古墳もあります。
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 古墳群の名称の由来は、隣接する天神社です。
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 雨が酷いため、上方へ行くのは断念しました。
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《続く》

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