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2019年08月04日00:22

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和歌浦日帰り紀行6 御手洗池 / 和歌浦天満宮

 7月28日日曜日は片男波を往復した後、北上して県道151号線を渡り、紀州東照宮〔県社〕の境内地扱いとなっている御手洗(ミタライ)池へ赴きました。
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https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%BE%A1%E6%89%8B%E6%B4%97%E6%B1%A0%E5%85%AC%E5%9C%92/@34.1906521,135.16406,17z/data=!4m12!1m6!3m5!1s0x60074d41ecfeaecf:0x22dc4c9e715adb23!2z5ZKM5q2M5rWm5aSp5rqA5a6u!8m2!3d34.191615!4d135.164237!3m4!1s0x60074d6a42858683:0xafa6ee0f4cbe8802!8m2!3d34.1898602!4d135.1654903?hl=ja
 御手洗池は、和歌浦の入江の残滓で、明治時代に周辺が埋め立てられた後も紀州東照宮参詣者の禊ぎの場として残されました。
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 昭和時代中期に排水の流入やゴミの不法投棄によって急激に水質が悪化したため、埋め立ててしまうプランも検討されましたが、昭和46(1971)年の黒潮国体の際に和歌山市によって公園として整備され、水質も改善されて風光明媚な景勝地に生まれ変わったのです。
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 続いて、御手洗池北方の天神山(標高93m)中腹に鎮座する和歌浦天満宮〔村社〕へ向かいました。
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 伝承によると、延喜元(901)年に大宰権帥に左遷された菅原道真が九州へ向かう途中、海上の風波を避けるために和歌浦に船を停泊した際、天神山から和歌の浦を望み、二首の歌を詠んだとされます。この時、敷物が無かったため、漁師が船の艫綱(トモヅナ)を円座(エンザ)の敷物にして迎えた故事が伝わります。
 なお漁師が船の艫綱の故事は神戸市須磨区の綱敷(ツナシキ)天満宮や愛媛県今治市の綱敷天満神社にも伝わっており、摂津から筑前へ向かう船が和歌浦に立ち寄るのは不自然なため、他地域の伝承が援用されたのだと推定されます。
 その後、人皇第62代村上天皇の康保年間(964〜968)に橘直幹(タチバナノナオモト)が大宰府から帰京する途中に和歌浦へ立ち寄り、この地に神殿を建て道真の神霊を勧進(カンジン)して祀ったのが当社の始まりとされます。
 中世には和歌浦一円の氏神としても信仰を集めていましたが、天正13(1585)年に至って、権大納言羽柴秀吉の紀州攻めの兵火で焼失してしまいました。その後、和歌山城代となった桑山重晴が社殿を再建しますが、慶長9(1604)年に和歌山藩主浅野幸長が天神山の中腹を開墾して新たな社地を造成し、慶長11(1606)年迄に本殿・唐門・拝殿・楼門・東西廻廊等を建設しました。
 元和7(1621)年に当地を訪れた林羅山は、和歌浦天満宮を太宰府天満宮・北野天満宮と共に由緒がある神社であると述べています。
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 表参道は、青石から成る急峻な石段になっています。
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 楼門〔重要文化財〕です。
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 慶長10(1605)年の建立(コンリュウ)で、彫刻には江戸幕府御大工棟梁の平内政信(1583〜1645;ヘイノウチマサノブ)が関わりました。
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 本瓦葺入母屋造で、一間一戸門としては全国最大級の規模を持ち、禅宗様を取り入れています。
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 楼門からの眺望が明光浦(アカノウラ)十景の《松間釣舟》です。
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 江戸時代には鳥居前まで入江が広がっていたのです。
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 本殿です。慶長11(1606)年の建立で、桁行五間・梁間二間の入母屋造になっています。飾性の豊かな桃山建築で、彫刻はやはり平内政信の手になる物です。
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 本殿右手に末社三社の入った覆屋(オオイヤ)があります。
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 多賀神社本殿〔重要文化財〕です。伊弉諾尊(イザナギノミコト)を祭ります。
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 天照皇太神宮本殿〔重要文化財〕です。天照大神(アマテラスオオミカミ)を祭ります。
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 豊受大神宮本殿〔重要文化財〕です。豊受大神(トヨウケオオカミ)を祭ります。
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 境内では百日紅(サルスベリ;Lagerstroemia indica)が咲いていました。
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 こちらは紫紺野牡丹(シコンノボタン;Tibouchina urvilleana)です。 
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《続く》
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