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2019年02月23日21:10

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旅と個人主義

 社会学的な意味での個人主義とは、「社会」というものは「個人」の集合として成り立っており、存在論的には個人が社会の優位にたつということを意味する。この場合、「個人」なるものは、それ以上の分割を許さないある統一的単位として考えられている。この統一性は有機的生命体としての統一のみならず、心的過程における統一、つまり「人格」というものを含むと考えられる。個人が自律的であると考えられるかぎり、その人格は他の人格とは完全に重なりあわずに存在していなければならない。つまり、身体と同様、精神面においても個人は他人とは同一でない面を有していなければならず、その総体は「個(体)性」と呼ばれる。

 しかしながら、歴史的・社会的存在としての人間は、こうした抽象的な意味での「個人」としては存在したことはない。実際には、いかなる人間もある関係の中に生れてくる。近代個人主義の原点となったホッブズ、ロックなどの社会契約論は、国家関係が成立する以前を自然状態と定義したが、この自然状態の住人が「個人」であった。ホッブズもロックもルソーもこの自然状態の着想を、国家や法などの外的な統治組織をもたない新大陸、アジア・アフリカなどの先住民の民族誌からえた。しかし、後の民族学者たちによって、こうした「未開人」たちも非常に複雑な社会組織を持っていることが明らかになった。彼らの社会もまた自律的な個人の集合以上のものであった。

 どんなに時間を遡っても、人は必ず母子関係という関係のなかに生まれつく。そして、人間の場合、自立するまでには十年前後を要するわけで、その間親の庇護の下にある。そしてこの母子関係も、家族関係とか共同体関係とか、より大きな関係のなかに埋め込まれている。人間は生まれながらにある集団(ひとつであるとは限らない)の構成員として生れてくる。そうした集団は成長したあとで所属する集団とは異なる性質をもっている。まず、そうした集団への帰属は自分の意志で選択したものではない。そして、それゆえに、自己の目的の達成のための手段という性格を、少なくとも最初は有していない。むしろ、集団そのものに属することによって自己の生が可能になる側面が強く、集団自体が目的である。

 こうした集団をゲマインシャフトとか共同体などと呼ぶ。共同体においては構成員は自律的な個人ではなく、集団の維持や発展という目的のためにある役割が割り当てられた構成員、有機体の一器官という性格をもつ。ここで個体として主体性をもつのは集団であり、「人格」とは集団のそれなのである。近代化の一側面は、こうした共同体の解体であり、結果として「個人」を生み出した。社会契約論者が想定したのとは逆に、個人は近代社会の前提ではなく結果なのである。

 この意味では、「個人」というのは電子顕微鏡発明以前の「原子」の概念と同様に形而上学的概念である。それは実体としては存在しない。しかし、もし人間はつねに「間柄」のなかにある存在であるとすると、「個人」とか「人格」というものはいかにして可能なのか。人間は他者との関係のなかにしか存在しないという「間柄主義」を受け入れるならば、「個人」というものもまた何らかの関係における一形式なり一機能として考えないとならない。

 ある人間が「個人」として「人格」をもつということは、まずは自分の所属している集団からある程度疎外を感じることができるということである。別の言い方をすれば、集団の構成員として自分に割り当てられた役割には収まり切れない自分を見いだしていることである。これは複数集団に同時に所属する現代人にはほとんど当り前の事実である。しかし、もし、個人がゲマインシャフトの解体から生じてくる間柄であるならば、ゲマインシャフト共同体に没入している人間が、どこから共同体からはみ出る内容を得てくるのか、と問われねばならない。そして、もし「個人」そのものが他者との関係の一形式であるならば、その他者というのは何者であるのかが。それは共同体で共有されている他者とは別のものでなければならないはずだ。

 個人主義は西洋のキリスト教文化、特にプロテスタンティズムの産物であるという見方が一般には受け入れられている。宗教改革によって、神と人間の関係は教会の仲介を受けないものになる。つまり、教会という集団に属することなく人は神と直接関係をもつようになる。そうなると、神との関係は他の集団との関係とはまったく独立した個別の関係となる。しかも、神の救いは集団とのメンバーシップから切り離され、その人自身の良心の問題となるから、神との関係はその人自身だけに個別化され、家族や共同体や国家などとのつながりを失う。つまり、「個人」というものは神という絶対的他者との関係を媒介して生じた形式である。ここから宗教性がはぎ取られれば、世俗化した近代的な個人主義となる。

 これが多くの西洋人の自己理解であり、また非西洋人のアンチ個人主義者が個人主義とは西洋固有の文化であるとする根拠である。アンチ個人主義は、これをもって個人主義は日本人には向かない、もしくは不可能であるとする。しかし、本当に個人性はこうした絶対的人格神との関係を媒介しなければ形成されないのであろうか?自分はそれは極端な意見だと思う。

 先日書いたまずい寓話では、徒弟は、まさに自分の共同体から疎外され孤独を感じている。つまり共同体から割り当てられた自己からははみ出す「個人」としての「人格」をもち始めている。彼が個人性を発展させる契機となったのは、行商人や旅芸人など、自分の属する共同体の外からやって来る人たちの話を聞いて、自分の共同体における生活とはまた別の生活の可能性を悟ったからである。また、おそらく隠者から感覚的世界の向こうにある超越論的な秩序の可能性について学んだからである。

 前者については、「ここ」にはいないけれども、どこかで異なる生を営む人々が他者として認識される。この他者と自分の属する集団との比較は、共同体自体の価値体系とは異なる価値基準を生み出す。ひとたびこの知識が得られたならば、「今ここ」の関係を無批判に肯定することはできなくなる。

 後者については、他者は実在する生の形式ではなく、自分が属する集団の価値体系とは異なる、実在が確認できないけれども理論としてありうる価値体系に生きる「まだ見ぬ自分」である。この「まだ存在しないけれども、存在しうる自分」が共同体からはみ出た内容となる。それゆえによりユートピア的性格がより強く、「今ここ」に対してよりラディカルに批判的な姿勢を産み出しうる。プロテスタンティズムから生じた個人主義は、この一例にしかすぎない。それは近代個人の形成において非常な影響力をもったが、それが唯一の源泉であるとは言えない。

 ここで、もし寓話のなかの徒弟が文字を読むことができ、そして彼の世界で印刷技術なり通信技術が発達していたとする。そうなれば、彼が、文字を通じて、そうした可能性――今ここでは現実には経験されてはいないが、別のときもしくは別な場所ではありえるかもしれない生のあり方――を認識する機会が飛躍的に増大する。読書がよく旅に例えらえるのは、恐らくこうした共通性に着目しているのである。

 それでは、この宗教なり哲学なり、「今ここ」にはないような世界観や価値体系の内容はどこから来たのであるか?それは究極には少数の天才の想像力に頼るしかないのかもしれないが、必ずしもそうとも言えない。むしろ、旅を通じて異なる共同体の知識が普及し、そこから「今ここ」を相対化する態度が生まれ、より完全な世界観なり価値関係を体系化しようという意識の生んだものが宗教の教義や哲学かもしれない。今風に言えば、抽象的で普遍的な世界観も旅や読書を通じた具体的な異文化交流から結晶したものなのかもしれない。

 「個人」の実在性を否定することで、個人主義を葬り去ったように考えるのは少しく軽率である。ましてや、個人主義は西洋の歴史に固有のイデオロギーにすぎないとしてしまうのは勇み足の謗りを免れない。人間は文字通りにも比喩的にも旅をする存在であり、そのかぎりで自分が生まれついた集団からはみ出る能力を生まれつき備えているのである。近代の個人主義が、旅を通じて出会った他者を通じてヨーロッパ人が自らを定義し直そうとした努力から生れたことからして、すでにプロテスタンティズムだけが個人主義の源泉ではないことを示唆している。
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