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2018年09月10日00:18

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究極の選択

小さい頃には、次の瞬間どう動いたら良いか分からない、という瞬間がたびたびやってきていた。
それは、その時までわからない。突然、次の動きがない。または、どっちだかわからない。
選択肢をいくつか考える。家では、どの選択肢が正しいかではなく、お母さんがどれを正解とするかを考える。間違ったらお母さんに怒られるのだから、それはそうなる。
究極の選択である。
思い切って、よーし、こっちだ!と選んだのが間違った場合、うわ〜そっちだったか〜と思うのだが、
その時の母の嘆きようがたまらない。
わたしは自分の好きなほうではなく、妥当っぽい方を選んだだけなのだが、なんだか自分勝手なように言われるのが、理不尽だった。
そんなんなら、好きなほうを選べばいいのだが、そもそも親の気に入るほうを選びたいので、「好きなほう」は存在しない。

幼稚園、小学校でもその手の究極の選択がいきなり現れた。その場合は、基準は親ではなく世間?のようなものである。
家で覚えたことは外では通用しない、と明確に思っていて、だから外のことは外で覚え直さないといけないのだが、いきなりのピンチには間に合わない。基準の無いところで、正解をすぐに出さなければいけない。
だから、固まる。すぐにやらなければならないのに、どうしよう。ここは悩むべき場面ではないのに。今すぐ、早く、と思いながら、動きが見つからず、そのままフリーズしてしまうのだった。

大きくなるにつれ、そういう場面は減っていった。対処法を覚えた、というより単にいい加減になっただけである。分からないなら分からないと言ってしまう。
昔はなかった「天然」という概念ができたおかけで、だいぶ楽になった。それがなかったら得体の知れない人、怖い、みたいな扱いだったと思う。人に怖がられるほど恐ろしいことはない。今は名前がついただけでも、昔よりはマシかなと思う。
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