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2018年09月02日23:50

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気楽に生きるための練習

中学生くらいの頃は、ひたすら考え方を変える練習をしていた。感情的なことや、周りの評価はひとまず置いといて、本質的なことを冷静に考えてみる。

例えば、友達の数が多いか少ないかって、よく考えたらどうでもいいよね。人生で別に不利にもならないしね、とか。

苦手な無駄話に頑張りすぎて、先生の話を聞き逃すことがあった。でも無駄話は、やるなと言われても楽しくてついやってしまうもの。頑張ってするものじゃない。いま大事なことは、先生の話を聞くこと。
大事な連絡とか、何かを守るための主張とか、言葉は必要なときに使えれば十分。あとは、黙っていても大丈夫。

自分の感情は、思った通りに思えばいい。周りの空気にそぐっているとか、いないとか、そういうものじゃない。他の人が思わないことでも、自分が驚いたなら驚いていいし、戸惑うならば、戸惑っていい。

ひとまず、理屈で言い聞かせる。
それでもやっぱり、人と同じなら安心する。話が途切れて沈黙になると不安になる。お昼に一人で食べなくて済むとほっとする。
理屈に感情はすぐに追いつかない。それは、仕方がない。まして人の評価となると、自分でどうにかなるもんじゃない。

考え方を変えるなんて、こういう「努力」は人にはわからない。「何も努力していない」と当時の友人に責められたりもした。
やっぱり分かりやすい努力といえば、誰彼なく声をかけて友達増やすように頑張るとか?生徒会役員に立候補して自分を変えるとか?そういうのもいいと思うけど、わたしはその道は選ばない。

昔からいつも、どうやったら楽かを考えている。頑張らなくていいよ、と言われたら、ほいほい従う。でもしんどいときには、少しでも楽にやりたいじゃない?楽に考えたら前に進める。やらなくていいと言われたら、却って気楽にやれる。

中学生くらいのときは、こういうことばかりじゃなくて、オカルト的なこととか、前世がどうとか、いろいろ考えていた。マンガを描くのが好きだったので、そういう妄想みたいな設定を考えて、そこに逃げ込んだり。神様に対して「悔い改めろ」と言ってみたり。眠ったら夢が本当になってこっちが夢になったらいいなあと思ったり。

こんな空想も、明日生きるための、とりあえずの足場にするのならいい。しかし、なかなか危ういところに立っていた気がする。
他の人も、このぐらいの年代にはこんなふうに生き抜いて来たのだろうか。わたしと同じコースを通った人はいないと思うけど。

でも何と言われても、自分で何とかするしかない。人のアドバイスは聞こえても、それは自分のサイズではないから。自分の力で、自分なりに考えてやってきた。わたしにはそういう自負がある。誰でもそうなんだろうけど。





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