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2018年02月26日10:29

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人生意気に感ず「多胡碑はいつもと違った。人々は占領軍守った。死の川が終わる。育英の偉業」

◇24日、多胡碑記念館はいつもの書道展より賑やかだった。「世界の記憶」に登録された上野三碑の中心的存在が多胡碑である。この三碑登録を記念した日中友好展が進行中であった。
 先ず、私は多胡碑亭に近づいた。案内係が立っている。碑亭の前に初代県令の歌が刻まれている。「深草のうちに埋もれし石文の世にめずらるる時は来にけり」。吉田松陰の義弟としても有名な楫取素彦は多胡碑を守り、その書を広く世に広めた人であった。自ら優れた書家であった楫取は貴重な碑が草に埋もれて風化することを恐れて碑亭をつくった。彼がこの碑を高く評価したことが卓見であったこと、そして文化行事としても立派であったことを今回の世界遺産登録は証明した。
 私は「多胡碑が世界的存在になりました」と挨拶の中で述べた。私は展示された拓本を改めて読み、そして碑文を書にした何人かの書家の作品に見入った。
「弁官符す。上野国の片岡郡、緑野郡、甘楽郡併せて三郡の内、三百戸を郡として羊に給いて郡と成し多胡郡と成せ」とある。
 刻んだ日は和銅4年3月、碑文の記載主とし23名がありその一人は藤原の尊(みこと)と刻まれている。藤原の尊とは藤原鎌足の子不比人であり、和銅4年は西暦711年である。これからもこの古碑は古代のこの地方の重要なことを語っている。上毛かるたは「昔を語る多胡の古碑」と謳う。
 この近くの桑畑で、かつて碑を隠した穴が最近発見された。敗戦の昭和20年、県史跡当局は占領軍の没収を恐れて隠したのだ。これら先人の努力の意味を今噛み締めなければならない。
◇今、午前2時。いつもの習慣で原稿に向かっている。あと数時間で新聞が配達される。そこで描かれる私の連載小説「死の川を越えて」は今日で113回。週2回のペースで約1年3か月続け完結まで残すところ3回となった。いろいろと伏線となる事柄を書いたが、それらは訴訟の舞台に合流する。今日の場面は「判決下る」である。裁判官は憲法13条、14条、18条、31条等を根拠に国の隔離政策の非道を追及する。
◇昨日、全国制覇を果たした育英のサッカー部を祝う会に出た。一人一人の選手が紹介され、監督が挨拶した。サッカーは過激なスポーツ。選手たちの姿は穏やかである。スーツの下の鍛え抜かれた筋骨を想像して胸を熱くした。(読者に感謝)


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