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2016年07月30日09:35

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『呂氏春秋』の言の葉

「天下は一人の天下に非ず。天下の天下なり。」(『呂氏春秋』)

 呂氏とは中国の戦国を統一した、秦の始皇帝の実父・呂不韋(りょふい)のことである。元々韓の陽擢(ようてき、当時の首都)の商人だった。商才逞しく、相場師で、その地域では名の知れた大商人だった。本来秦王朝とは関わりの無いところで生活をしていたのだが、或る時、趙の国に人質として、送り込まれた王子を見つけた。その姿は冴えないが、相場師の勘が働いたのだろう、この時あの名言が飛び出す。

 「奇貨居く(おく)べし」

 奇貨とはめったにない掘り出し物のことを云う。安いうちに買っておいた方がいいという意味である。尚、今の日本では法律でも時々この「奇貨」という言葉が出て来る(特に民法)。その由来はここにあった。

 ただ趙に送り込まれた王子は「これで自分の人生は終わった」と思っただろう。何しろ趙と秦は交戦中であり、生きて帰ることは出来ないだろうと彼はしょ気ていた。

 ところがそんな王子が「奇貨」だというのである。ここから彼は秦と関わりを持つようになった。彼は秦本国の妃に子が無いことに注目。夫人に近付き、
趙にこんな王子が居りますよ。いっそ呼び寄せて、養子にでもしたら良いと提案する。

 思った以上に夫人は乗り気だ。が、この時、秦と趙を長平の大合戦で、双方多大な犠牲者を出した末、秦の将軍・白起が趙軍の捕虜40万人を生き埋めにし、一時講和条約が成るが、また秦は趙を攻め、首都の邯鄲(かんたん)を包囲する。こんな状況ではとても簡単に出国出来そうにない。

 どうやらこの時、王子は呂不韋から美姫を得て、彼女は始皇帝を産んだようである。但し、妊娠したタイミングがどうも早すぎる。呂不韋の子を身ごもっていたと考えるのが自然だ。

 趙の国民は秦を憎み切っている。このまま趙の邯鄲に居たら身が危ないということで、秦に脱出。夫人に会うことが出来た。夫人は元々楚の出身で、楚のファッションを身にまとっていた彼をひと目見て気に入り、彼を養子にした。勿論、戦時下の趙の国を脱出出来、やすやすと彼が王子になれたのも、呂不韋の入れ知恵があったことは間違いあるまい。

 秦の昭王はこの時代としては70歳まで生き、息子の孝文王が53歳で後を継ぐ。この時、養子だったこの王子は、即位後、子楚(しそ)と名乗り、太子となる。しかしこの孝文王も即位後たった3日で急死する。暗殺の匂いがしてくるが、史書は沈黙している。子楚は王となり、荘襄王(そうじょうおう)と
後に呼ばれる。だが、彼もまた34歳の若さでたった3年にして病死してしまった。ここで後の始皇帝・政が13歳の若さで即位するのだが、呂不韋が献上した美姫が元妾というのがよろしくない。呂不韋を慕って趙からついてきたのだろうが、最早呂不韋にしてみれば、彼女には思いは無い。

 一計を案じ、呂不韋は彼女が好色なことに目をつけ、一人の巨漢の男を宦官として彼女のいる宮殿に入らせた。

 これでこの件は片付いたと思った。呂不韋は、中国最古の百科事典である『呂氏春秋』の編集に取り掛かった。彼は当時一級の文化人だったのである。

 しかし計算違いのことは起きるものだ。そういった文化的事業も佳境に入ったとき、政が即位して9年後、彼女との間にこの男子が子どもを設けるや、政を暗殺し、秦を乗っ取ろうと画策する。ただこの計画は事前に政の知るところになり、この男子を捕まえて、車裂きの極刑にした。自分の母親は秦の僻地に追放した。

 実父の呂不韋を政はそのままにしておく訳にはいかない、殺そうと思った。
が、先王に仕えた呂不韋の功績は大きく、嘆願が少なくなかった。やむなく、
宰相の位を罷免するにとどめた。

 呂不韋は、その後洛陽に遷り、政の政治を批判しはじめた。名のある人達が挙って呂不韋に会いに来た。その様子はまるで天下を主宰するかのようだったという。この時、彼を批判した言葉が

 「天下は一人の天下に非ざるなり。天下の天下なり。」

 というものだった。今で言う民主主義というところか。

 それを知った政は、彼を蜀に追放しようと考え、次のような内容の書簡を送った。

 「君は何の功あって、洛陽に10万戸も領地を保有しているのか。家族ともども蜀に遷れ。」

 と蜀(今の四川省)は当時、今以上に僻地だった。秦にとって、生産地には違いないが、辺鄙なところだったのである。そんなところに行かされるぐらいならば、と思い、また、王一人が権力を握れば自滅も早いということを理解出来ない我が子の悲しさを思い、呂不韋は「政よ、幸多かれ」と毒を仰いで自殺したのだった。

 しかし『呂氏春秋』の思想は未だに健在である。

 後年、日本の戦国時代、関ヶ原の戦いの折、西軍の実質の総大将の石田三成が掲げた旗はこうだった。

 「大一大万大吉」(注・「大吉大一大万」と読む読み方もある)という旗印である。意味は呂不韋の言の葉とほぼ同じである。三成の実生活は慎ましかったようだが、学はある人だったから、『呂氏春秋』も読破し、ヒントにしていたのかもしれない。

 最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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