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2016年07月21日23:12

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福沢諭吉の言の葉

「人生本来戯れと知りながら、この一場の戯れを戯れとせずして、努力せよ。」(『福翁百話』)

 これは福沢諭吉の『福翁百話』の一節である。この節は人生論を語っている。色々な著名人が人生論を書いてはいるが、この世に生を享けたという大前提のもとに、夢のような人生をひたすら孜々として暮らすのか、全く酔生夢死のように暮らすのか、相対的に持ってこざるをえない。

 しかし他の著名人と大きく異なるのは、相対的に書いている一方で、
「努力せよ」と言っておきながら、諭吉は報われなかったとしても、苦悩するなとも述べている。この二元論的な展開が面白い。

 人生とは肝心なことは何も分からない。

 なぜお金持ちの家に生まれなかったのか?

 なぜ美人でスタイルも良く生まれなかったのか?

 何の罪も無い子どもが交通事故で亡くなったり、絵に描いたような善人が、
不治の病に冒されたりする。

 世の中は納得できないことだらけ・・・それを何とかつじつまを合わせて生きているのが我々かもしれない。

 肝心なことは何も分からない。分からないことが人は不安なのかもしれない。その不安に堪えられず、隠すために様々な「言い訳」を造り出す。

 そうならないためにはどうしたらいいのか。

 肝心なことは何一つ分からないと見切った上で、結果は兎も角として、今、此処に集中せよと諭吉は述べている。

 捉え方を変えてみれば、肝心なことは何も分からないということは、本来不安なことではなく、素晴らしいことではないか。ここまでくると富貴を比較した勝ち組、負け組の世界から完全に抜け出すことが出来る。

 もし人生に決められた価値、目的というものがあれば、我々はただのロボットだ。何も分からないからこそ、価値が出て来るのであり、自分らしい人生も送れるのではないだろうか。

 最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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