「過去と未来とを鉄の扉で閉ざせ。日一日の枠の中で生きよ。」(デール・カーネギー、作家)
江戸時代のある話。
1人の若者が気持ちよさそうに寝ていた。そこへ大家さんがやって来て、説教を始めた。
「若い頃は、額に汗して働くものぞ。それなのにお主は昼寝
なんぞして、全くなっとらん。」
この若者は不思議な顔をして、
「しからば、大家さん、お尋ねしますが、働けばどうなるのでござるか?」
当たり前のことを聞かれた大家は、
「そりゃ、働けば、お金が儲かるに決まっとる。」
若者は質問を止めない。
「では、お金が儲かれば、どうなるのでござるか?」
大家は
「それならば、やがて店を持てるようになるわい。」
若者はそれでも止めない。
「店を持てるくらいになると、どうなるのでござるか?」
大家は
「そのうち、番頭さんに店を任せて、自分は昼寝
が出来るようになるわい。」
若者はにっこりして
「なるほど、働くとは結構なことでござるな。のんびり昼寝が出来るとは。しかし大家さん、拙者はその昼寝をしているところでござる。」
大家は返す言葉を失った。
この話は色々とバージョンがあるようだ。しかし注目すべきは、大家さんは、働かねば、お金を稼がなければ、昼寝が出来るような心のゆとりを手に入れることは出来ないと思っていたことである。
その結果、有りもしない未来の自分と、今、過去の自分に線を引っ張り、わざわざ心のゆとりを失うことをやっていた。
最近週刊誌や広告代理店が頻繁に使うようになった「自己実現」という言葉。以前伊東正義議員は、「看板だけ変えても中身が変わらねば意味は無い」と仰せだったが、まさにこの点でもよく当てはまる。次から次へとよくもまあ、上っ面だけ真新しい言葉を考えられるものだ。その「企画力」には全く以って脱帽である。それが仕事なのだから、彼らはまあ仕方がない。だが、この自己実現の幸せも、束の間である。今、過去の自分と、未来の自分との間の線が解消された、というだけに過ぎないと気づくだけだ。
それは宛も空腹が満たされれば、最早、食の楽しみが失せてしまう感じに近い。自分で苦しみを創りだし、それが解消されると、また喜ぶ・・・。叶うかどうかすら定かでない束の間の幸せのために、人生を継ぎこむ・・・それは真の意味で幸せなのかどうか。
カーネギーは、枠を時空に絞ったが、枠は何も時空だけではない。人生、あらゆるところにせせこましい境界線だらけである。この若者のように、心のゆとりの真っただ中に居る人は、心のゆとりなんか欲しくも無いのだ。
しかし無いものねだりしてしまうのも、偏に今、この場に在ることの幸せを見失っているからである。
幸せ自体に境界線を引いてしまっているから、何かをしなかったら、幸せで居られないという不都合が起きる。
「自己実現」という言葉で人を釣り上げる商売をしている者たちにとっては、誠に「不都合な真実」だが。
それはさておき、境界線を創りだす源のひとつに、我々が子どもの時から大人たちにしつこく言われ続けてきた「常識」もその最たるものだろう。
「努力すれば、夢がかなう」というのが本当だと思いこむと、努力する自分と、怠ける自分との間に境が発生し、怠ける自分が許せなくなるかもしれない。「楽しく夢を叶える」という選択肢を失ってしまう。
「運が良くなければ、成功しない」というのも尤もらしく聞こえるが、実際には、ただ単に、上手く行くやり方が見つからない、それだけなのかもしれない。
「くよくよするな」というのも、理想的に聞こえるが、傷つきやすいナーバスな自分の中に、緑や花を愛でたり、女性や子供を慈しむ優しい気持ちが内包されているのかもしれない。
どんなに社会的、慣習的なシステムに縛られていても、境界線が無かったら、精神面でも現実面でも、自由に生きることは出来るはずである。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
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