Ｔ．Ｄ(神統歴）６０２年 極東
国連遺伝疾病研究センター・統合司令室
<主任、抗ウイルス薬ノ効果ハ見ラレマセン、扁桃体以外ニモ、海馬マデ感染ト変異ガ確認出来マス>
様々な計測機器の鳴らすアラート音に混じって、僅かに人間らしい抑揚を残した電子音声が
ゼンドウ・ハルキ研究主任の鼓膜に飛び込んできた。
くそ、まだ類人猿でのテストにも行けずに失敗か。忌々しいウイルスめ。
彼は、モニターに映された―――脳外科用の拡大モニターを見ずともそれと解る―――変色し肥大し、明らかに正常な形を保たないマウスの脳を見ていた。
「兄さん！換気フィルターのセンサーも異常タンパク質を検知してる！早く作業を中断しないとエウロス君達も危ないわ！」
ハルキの耳に、今度はトーンの高い女性の声が届く、
<ミフユ副主任、我々ノ強化血液脳関門ハ、特ニ大キナ異常ヲ検知シテハイマセン、作業継続ノ許可ヲ>
その言葉に、モニターの中に居る何処かぎこちない動きをした、長身の男が答えた。
「兄さん！彼らを退避区画へ！！」
ハルキは少し思案する様子を見せていたが、慌てる事無く的確な指示を伝えた。
「よし、フェイズ３以降は全てキャンセルしよう。サンプルは窒素凍結後に寒冷下での検査に、凍結作業を行ったらエウロス他２名は退避隔離室へ。作業中の第一手術室は滅菌作業の後に閉鎖とする。」
第一手術室の中にいるエウロスと他二人の身長２ｍ長の男達は、即座に変異したラットの凍結作業に取り掛かった。
ハルキの横で室内の様子と計測機器のデータを確認している白衣の研究員のミフユは、先程の狼狽とは打って変わって冷静さを取り戻していた。
「エウロス君達は、ウイルスが第二フィルターに侵食する前に十分作業を終えられそうです」
ハルキはそれに、淡々と冷静な口調で答える。
「ミフユ君モニタリングありがとう、ちょっと僕は考え事をしてる。僅かな変化でもあったら報告して下さい。」
「・・・・兄さん、仕事中とは言え妹にそういう言い方は止めて、何か嫌な気分になるわ。」
妹の口から高いトーンで放たれた最後の言葉を、ハルキは殆ど認識していなかった。
彼は既に実験の失敗と思い当たる問題点を、自分の頭の中で何度も反芻していた。
”ザグレウス・レトロ・ウイルス―――通称ＺＲＶ”
この名を冠した一連鎖ＲＮＡウイルスが彼と研究所全体、そして全ての人類に影を落としていた。
このウイルスの脅威から”目を背ければ”、人類は過去に無い程の繁栄と栄華を誇っていたのである。
HIVや肝炎ウイルス、子宮筋腫ウイルスと西暦２０世紀に発見されたレトロ・ウイルスは当初、人類にとって滅亡への片道切符とも言える様な”治療不能疾患”と言う恐怖をもたらし、後進国や先進国を問わず、消去不能な伝染ウイルスの烙印を多くの人間に焼き付けて行った。
しかし、人類がレトロ・ウイルスに恐怖するのは人類の歴史から見れば非常に短期間で終わり告げ、間もなく人類史上最大の恩恵と言う事に気付き始めるのである。
それは本来の”人間のDNAを書き換える事が可能な、転写能力を持ったウイルス”と研究者達が気付いた事が発端となった。
まずレトロ・ウイルスを操作して転写阻害能力を持った人工の酵素を作り上げ、そしてウイルスの遺伝子操作によって、ヒトのDNAの任意の書き換えを徐々に可能にしていった。
最初に実用化されたのが、遺伝子リセットによるクローン作成、iPS細胞である。
レトロ・ウイルスのコントロールが高度になり、逆転写能力で細胞を元に戻し、HIV、肝炎、筋腫の治療薬となる可逆レトロ・ウイルスが開発された。
親子間の遺伝病も駆逐され、幾つかのがんやアレルギー、アルツハイマーの要因となるDNAもレトロ・ウイルスにより書き換えられ発症率が大きく下がっていた。
ヒトは天からもたらされた神の細工道具で、過去最高の繁栄を謳歌していた。
しかしハルキの開発した、ＺＲＶに対するカウンター・レトロ・ウイルスの臨床実験は明らかな失敗に終わった―――
＊＊＊＊＊
「・・・・エウロス他二人は隔離退避施設に移動完了、１５日の洗浄と経過観察に入ります。凍結サンプルは今後無人の遠隔操作ラボでのみの運用となります。」
ミフユが作業の完了をハルキに告げた事で、ハルキは夢想の世界から現実に引き戻された。
「ZRVに対する逆転写は理論上可能で、転写コードの間違いも無いのに・・・・何故失敗した？」
彼は疑問を妹に投げ掛けた、
「今の所、私には解らないわ。そして兄さんも解らないんだから、今の世界には解けるヒトは世界には居ないって事ね」
ハルキは暗い表情を更に歪める。
「理論上は完璧な抗ウイルス治療薬だ・・・・しかしそれは人類のウイルス・コントロール技術と、過去の知識、そして臨床結果だけが根拠のものだから、僕達には謎解きの新たな理論が必要だって事か」
ミフユは、思案に暮れている兄に、小さな声で呟いた。
「・・・・ボリビアのチームが開発してる、転写阻害酵素はどうなのかな？治療は出来ないけど・・・・」
ミフユは完璧主義の兄の返答を半ば予想はしていた、
そしてハルキがほぼ予想通りの答えを返してくる。
「それは僕達にとっても今じゃ両刃の剣だ。既にOECDや新興国じゃレトロ・ウイルスによって何らかの治療や遺伝子操作を何代に渡って受けている。僕やミフユがこの試験薬に辿り着くまでの道程だって、遺伝子操作技術無しじゃ何百年ロスしたか解らないよ。
レトロ・ウイルス治療を受けた事が無い/将来受けない少数の人類には効果的だけど、僕達にはあらゆる医療行為の放棄と同じになってしまう」
ハルキとミフユは暫く押し黙った。
そこにドアを開けて、オペ室に居た男達と同じく、２ｍを超える大きな影が部屋に入って来た
<オ取リ込ミ中失礼シマス、”ぼれあす”デス。次回のおぺれーしょんハ私ガ担当スル事ナリマス>
聞きなれた電子音声が二人の耳に飛び込んでくる。
「スケジュールは想定の範囲だけど、隔離で動ける人員が減って、君たちの負担が増えて申し訳ない。
早期に大型哺乳類と類人猿の臨床に移りたいから、よろしく頼むよ」
ハルキがボレアスと呼ばれた、ぎこちない動きの長身男に穏やかに答えた。
<問題アリマセン主任、我々ハ皆ガ志願者デスカラ・・・・オ役ニ立テレバ本望デス>
「すまないね」
「疲れたわ」
「ああ、努力の結果が実らないと疲労を何倍も感じるもんだよ。学生や院生だった頃もこんな感じだったし・・・
こればっかりは、人類が知恵を振り絞ろうとどうにもならないからね。」
「兄さん、帰ろう」
「ああ」
＊＊＊＊＊
大きなベッドの上で、ハルキとミフユは一糸も纏わず寄り添って眠っていた。
二人ともシャワーを浴びていたが寝具には夕べの情愛の残滓がはっきりと見て取れた。
後天的な遺伝子操作は、様々な常識や固定観念を破壊して行った、その中でも大きかったのが近親婚である。
近親婚の生物学的、医学的な問題であった遺伝子の脆弱さや遺伝病、更に抗体欠損など、
あらゆる問題がレトロ･ウイルスによってクリアされていった。
それから徐々に、様々な宗教、哲学者、社会学者、心理学者が殊更、遺伝子操作の技術に対し批判を展開し始めた。
『神の領域に踏みこむ』『大事故が起きる可能性がある』『遺伝子が人の自由思想を奪う』等々・・・・
彼ら全員に、そしてどの団体にも共通して最大のスローガンとなったのは『このままでは近親婚が可能になり、人類のタブーを犯す』という一つの題目であった。
しかし”無病”が現実可能と提唱され、全人類の欲望の為に技術開発は邁進して、反対派の声は小さくなっていく。
そして一部の技術推進派が『神話や歴史の原初は、いずれも近親婚である』と主張し、幾つかの賛同する組織や小国家が近親婚合法化へと舵を切ったのである。
あとは幾らの時間は掛からなかった、遺伝子操作下での近親婚容認はあっという間に世界へと広がった。
最先端の遺伝子工学の中で生まれ、その環境の中で育ったハルキとミフユも例に漏れず兄妹婚を選択していた。
反近親婚論壇は既に沈黙していて、フロイト的な親兄弟からの自立説などは過去の遺物とされ、発達心理学も新たな親子関係と兄妹、姉弟関係を構築する段階に入っていた。
将に神話や歴史の根源と考えられてた、神々の交わる時代に戻ったのである。
夜明けを前に薄っすらと目を覚ましたハルキは、ミフユが柔らかい身体を押し付けながら、既に目を覚まし柔らかい身体を押し付けて、ハルキの横顔を見つめている事に気付いた。
「・・・・寝なくていいのか？昨日あれだけ疲れてると言ってたのに・・・・」
ハルキはミフユの目を見つめ返した、
「うん起こしてごめんなさい。昨日話してた転写阻害酵素の事が頭から離れなくて・・・・・」
彼女は身体を押し付けたまま、視線だけを逸らした。
「あれはウイルスの根本的な治療薬にはならないし、それに加えて僕達にとっては役に立たない代物だよ・・・
利用できる人間は地球全人口の１％未満、尚且つ時間稼ぎにしかならないものに国連と主要国は予算を割かないだろうね」
ミフユはまた弱弱しく呟く、
「解ってるけど、生き残りが方舟で逃げ出し新たな世界を作る・・・・そんな神話があったじゃない？」
「僕達が置かれている状況はそんなに深刻じゃない、ＺＲＶの拡散速度を考えると何処かの研究チームが
根治薬、治療法を確立させる時間は十分過ぎる計算だ。」
ハルキは体位を代え、ミフユに覆いかぶさり言葉を続ける、
「どっちみち、今の遺伝子操作水準を維持しないと僕達だってこうしては居られないんだから、転写阻害薬だけは最後の手段にして欲しいね」
ミフユは再び、直上から自分を覗き込む兄から目を逸らし、複雑な表情で答えた。
「うん、私も兄さんが好き。だけど神に等しい存在が世界に生まれてたら、きっと悪魔も生まれてるのよ」
＊＊＊＊＊
<脳硬膜外ノ遺伝子変異ヲ確認シマシタ、すてーじＣ末期ダト思ワレマス>
混乱に終わったマウスの臨床試験から３ヵ月後、ハルキは一人で司令室のモニターを確認していた。
モニターの中にはエウロス、ボレアスと他３人の長身の男が、診療台に横たわった一人の感染者の処置を行っていた。
本来しわや黒子も無く滑らかだった感染者の皮膚には赤い発疹が所々に浮かんでいた。
目は虚ろで天井の一点を見つめ、喘ぎながら口の横からよだれを流していた。
研究所の遺伝学副主任ゼンドウ・ミフユその人である。
「熱い、熱いの・・・・兄さんが直ぐ傍に居るみたいに熱い・・・・」
診療台の上で悶えながらミフユはそう繰り返した、
「貴方達、患者のデータをちゃんと記録しておくのよ・・・・」
<主任、臨床段階ノ試作逆転写れとろ･ういるすノ投与、第３たーん開始シマス>
ハルキは殆ど瞬きもせず、モニターを見て報告を聞いていた。
７０時間前、二度の陽性を確認した後にハルキは自分の何処にこんな巨大な感情の塊が有ったのか不思議に思うくらい、様々な感情を爆発させた―――そして全てを吐き出した後、感情を殺した。
この３ヶ月でマウスを最長まで延命させた試薬の投与を即座に決めた。ボリビアで研究されてる遺伝子転写阻害薬の試薬も緊急事態を口実に国連軍に空輸で運んでもらう手筈を整えた。
しかし陽性が確認された時点で病状は深刻だった。
ＺＲＶ―――この遺伝子を書き換えるレトロ・ウイルスは、脳内に入り込みその構造とタンパク質組成を書き換える。
その中で最も深刻な症状は、扁桃体、下垂体の肥大や変形を引き起こし、βエンドルフィン、ドーパミン、ノルアドレナリン、アドレナリンと言った脳内麻薬を無制限に生成し始める事だった。
そしてそれは自家中毒から頻脈、血圧の乱高下、心停止に至るまで続いた。
記憶を司る海馬も変形し、幻視、幻聴、幻覚を引き起こし過去の記憶の再構築にまで至るケースが有った。
ハルキは最新の逆転写レトロ・ウイルスを投与しながら、ミフユの代謝可能な範囲で脳へのダメージを軽減させる対処療法を行う治療方針が最善だと結論付けた。
――――しかし発症から２４時間で、ハルキの全ての希望は打ち崩されていた。
マウスを最も延命させた試薬は、ミフユにとっては何の救いにもならず、一般的な発症例と同等か、或いは平均値より短時間で病状は進行して行った。
脳へのダメージも対処療法だけでは阻止する事が出来なかった、転写阻害薬の到着する時間には、仮にタンパク質の変異が止められても相当なダメージが脳と肉体に残り、
さらにミフユがあらゆるレトロ・ウイルスを治療に使えない身体になる可能性が高かった。
そして発症７０時間後の今、エウロスやボアレス達だけが入る事が可能なオペ室の診療台の上で、ミフユは両手を天井に向け、宙に居る誰かを何度も抱きしめるように動かしながら、うわ言を叫んでいた。
「兄さん！兄さん！信じられないくらい兄さんが近くに居る！！私と一緒に兄さんがいる！！感じられる！」
(続く）
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