夜半に入り、塔に打ち付ける雨は激しさを増した。
カリオペーはこの部屋に一人入ってくるはずの男のデータを眺めていた。
黄色人種の黒髪で黒い瞳、身長は１７０cm・・・・端末に移し出されたデータを復唱してみるが、ただただ自分の中に空虚な感覚が広がるだけで、今夜の雨音の様な現実感は何一つ感じられなかった。
メディカルチェックではホルモンバランスも機能的MRIも数値上問題無しだったが、これから起こる出来事と相手に期待もなければ不安すらも抱けないのが今の彼女の本音だった。
（他のニンフ・・・・特に男のニンフ達はこういう時に感情と言うものを抱くのだろうか？）
答えなど帰ってこない事を知りつつも、そんな事を孤独の中で考えてみる。
そして彼女は再び、降りしきる雨へと視線を移した。
＊＊＊＊＊
スクネ・タダツネは最後の関門に差し掛かっていた。
外界と『楽園』を繋ぐハブの中では、簡易ゲノムチェックと肉体の洗浄処理だけで、詳細なゲノム変異チェックまで不可能な事は予想できていた。
いつも通り保存しておいたサンプルを持ち歩き、チェック時に摩り替える、
ハッカー達の間では、システムの自動化と効率化が進んだ状態でこそ、単純で古典的なトリックや手品が最も効果的な方法だと信じられていた。
強固な電子ロックや生体認証システムは、適合者からデータを盗む事を第一として、それが無理だったら壁や通気口を破った。必要なパスワードは、権限者の中で最も心配性な人間を探れば端末や（今や希少品となった）紙のメモ帳にそれが記されてあった。
事務官がルーチンの様に寸分違わぬ方法で遺伝子を採取するゲノム変異のチェックでは、一度サンプル摩り替えのタイミングを身に付けてしまえば、何千回、何万回のチェックでもシステム化の完璧さが、トリックの成功を完璧に保障する、タダツネはそう確信していた。
ゲノムチェックの後、タダツネの目の前に、全身を黒いローブで包まれた異様に背の高い男が現れた。
―――カロン―――
『楽園』の管理者でありニンフ達の管轄者、そしてハッカー達が忌むべきネットワークの支配者、
その一人が目の前に立っていた。
彼らが人間達の前に姿をあらわす場合は、常に顔も見えない黒いローブを羽織り、殆どの場合は画像やホログラム・アバターを使っていたので、こうやって直接肉眼で見る機会はごく稀にしか無い。
タダツネはこの演出を、支配者と隷属者を分ける為の心理操作システムだと考えていて、更にカロン達のカリスマ化と万能性を、一般人の無意識に植え付ける物だと分析していた。恐怖と共に、計り知れない能力への憧憬の共存、ネットワークや『楽園』を支配していても、尚、その支配力を強固にしようとするカロンという存在―――
そこでタダツネのハッカーとしての、抵抗者としての嗅覚が働いた。
彼らもまた、自ら抗えない巨大な何かへの恐怖で、力を誇示しなければならないと言うパラノイアを抱いているのだ、と。
カロン達を打倒するジークフリートの葉は、きっと何処かにあるのだ、と・・・・
（ツイテ、キタマエ）
カロンがノイズ交じりの合成音声でタダツネにそう呼びかけた。
ゲノム検査の結果も伝えられず、行き先も伝えられる事無く、ただそう命令され、タダツネはただそれに従った。夕方から降り始めた雨はいつの間にか本降りの小嵐へと変わっていた事に、完全密閉された検査部屋から廊下へと出た時に初めて気が付いた。
確かモーツァルトの葬送も、大嵐の中で参列者が一人減り、二人減り、最後には一人の墓掘り人しか残らず、その偉大な業績と相反して、墓地の場所が散逸してしまった、そういう文章を以前読んだ事が有った。
俺も墓掘り人と一緒にこのまま地の底へ連れて行かれるんだろうか、それとも・・・・
タダツネの脳裏に浮かぶのは不安と恐怖、しかしながらそれは日常では感じえない興奮と同居する恐怖だった。
タダツネは地の底ではなく、建物の出口に横付けされたワゴン車へと誘導された。
道は外界の方向でも『楽園』とされる方向でもなく、その中間に位置する建造物”ハブ”の各施設内を周回する道路に続いており、外界からは高い壁に阻まれ中を窺えなかった”ハブ”が、大きな中庭にビルが並んだ施設群である事が始めて確認できた。
ワゴン車にカロンとタダツネが乗り込んだ後、カロンが携帯端末を操作し車は自動で走り出した。車内にはカロンとタダツネしか居なかった。
移動の間、彼はカロンに今からの自分の運命や、先刻のゲノムチェックの結果を尋ねるかどうか自問自答したが、やはり自分自身が不適合者か、あるいは仲間達が辿った悲劇を思い出し、疑問を投げ掛ける事を押し留めた。
そして彼はやむなく、窓の外の夜闇と雨垂れを通して、稼動してると思われる施設の明かりを目で追っていた。
しばらくすると、車の向かう方向に細く高い施設が薄ぼんやり浮かんでいて、それがライトアップされており、徐々に大きく鮮明にその全容を現して来た。
間違いなく、俺の送り込まれる場所だ。
尖塔の入り口は開け放たれており、ワゴン車は入り口へと続く雨よけのアーケードの端に停止した。
車のドアが開けられ、カロンからまた合成音声が発せられた
（ヒトリデ、イキナサイ）
タダツネは車を降りて、尖塔の入り口へとゆっくり歩みを進めた。
カロンは車の前で彼を見送るように―――いや、再び車の中に戻らないように、かもしれない―――黙って立っていた。
そしてワゴン車とアーケードの中間地点に差し掛かった時――――
タダツネはけたたましい高周波を聴いた、いや寧ろ身体の中心に直接響くような不快な音が突き抜けて行った。
ドサッ、
何か重い物が落ちる音、或いは大男が倒れる音、
タダツネは慌てて背後を確認する。
そこには地面に倒れ伏した先程のカロンが動かなくなっていて、その背中の上に古めかしいレインコート、濃い色の背広、ネクタイ、背は高く、顎まである長い髪と、ライトに照らされ鳶色に輝く眼を持つ、一人の男が圧し掛かっていた。
タダツネの思考は止まった。純粋な恐怖が、彼が思考する事も身体を動かす事も彼自身から奪い去っていた。
それからは全てがスローモーションであり、目の前の男も自分もビデオか映画の登場人物の様に思えた。
男は右手に持った銃をタダツネに向け、無表情のまま正確に狙いをつけ引き金を引いた。
＊＊＊＊＊
雨音は激しかったが、塔の最上階からも階段を誰かが登ってくる音は聞こえていた。
カリオペーは来訪者がエレベーターを使わない事を怪訝に思ったが、その思考も夜の雨に消えていった。
写真もホログラムも与えられず、データだけで選ばれた男が自分の虚しさ、欠落、不自由を満たしてくれるのか――――
足音がカリオペーの佇む部屋の前で止まり、来訪者がノックもせずに扉を開けた。
そこには、身長が180cm以上は有り、瞳は鳶色、黄色人種なのは合っているが、男にしては長い髪は瞳と同じく薄い鳶色掛かっていた。
一体どういったエラーが起こったのだろう？カロンが管理する『楽園』の選抜システムは完璧なはずだ。データの取り違えが起こる確率は０．１%を遥かに下回る。
カリオペーの思考を遮るように男は彼女に話しかけた、
「色々疑問が有るのは解るんだけど、僕としても時間が限られてるんで・・・・」
古い記録媒体の映画から抜け出したような服装、飄々とした語り口、芝居がかってる様にも見えたそれが、カリオペーの五感を、初めて見た雨から引き剥がしていった。
男はカリオペーの言葉も聞かずに、彼女を抱きしめ、まだ未知の感覚に戸惑ってる彼女に軽くキスをした。
「カロンやニンフ以外の男を視たのは初めてだね、時間が有れば君の知らない世界の事も色々説明出来るんだけど、
僕としても不本意な事に、それが無理でね。恋愛感情か、その欠片でも短い刹那で理解してくれる事を祈るのみですよ。」
有無を言わせぬ行動とは裏腹に、来訪者の表情は古い映画の子供のような感情の変化をカリオペーに見せていた。
彼女は心地良いまどろみへと堕ちるまで、自分の中にあったはずの堅固な何かが崩れ落ち、この異邦人により別の新たな何かへと姿を変えていくのを、感じ続けていた。（完）
拓也◆mOrYeBoQbw
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