カリオペーはガラス窓から闇夜の雨を眺めていた。
気象コントロールで制御されておらず、尚且つ環境ホログラムでもない本物の雨を見るのは初めてだった。全自動化されたこの『楽園』では外部の様子を眺めるのも制御監視塔しかなく、ここも誰かしらの要望がなければ、彼女達ニンフはおろか保守管理要員すらも立ち入らない区画である。
彼女がこの施設の使用を希望してから簡単な清掃が行われたのだろう。簡易ベッドのシーツは新品に取り替えられ、おそらく剥き出しだったソファにもシーツがかけられている。質素なテーブルと椅子には似合わないディナーの準備と冷蔵庫に詰め込まれた食事と飲み物。
（ここだって無菌フィルターで管理されてるんだから、汚れる理由が無いでしょうに・・・）
彼女は皮肉な笑みを浮かべながらそう思った。
本来彼女は『楽園』の環境から違う環境を求めて、この殺風景な管理塔の最上階を指定したのだが、管理チームが余計な気を利かせて、飾り立てた事が腹立たしくもあり、妙な可笑しさを覚えもした。
そして彼女の心を奪ったのは窓から見える本物の雨だった。
閉塞された施設の気象システムが作る偽物の雨ではなく―――
それは不安定に窓に打ち付けられ、風の強弱によって拍動してるように音を立てていた。ガラスの水滴は打ち震え、粘性を持つようにジグザグに窓を滴り落ちて行った。
最上階にはデジタルオーディオも簡易シアターも用意されていたが、彼女はそれに触れる事無く、部屋の明かりを少し落とし、塔に打ち付ける夜の雨と雨音に包まれていた。
カリオペーは塔の頂上で、まだ見ぬ一人の男を待っていた。
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一般的な人間が、『楽園』に足を踏み入れるには３ヶ月にも及ぶ長い審査が必要だった。
正確には外界と『楽園』を繋ぐ緩衝施設に当たるのだが、それでも『楽園』に居住するニンフ達や管理技術者であるカロン達に会い見える事は非常に困難を伴った。
『楽園』やニンフ達への接触はいわば外界での競争原理に良く使われ、公序良俗の促進、社会的地位の向上の旗印として、２０年ほど前までは政府の公式な見解として選考基準を提示し、それ以後は選考基準を非公開にしたものの、一般には社会の競争原理に勝ち抜いたものか、あるいは突然変異的な優秀成績者が選ばれるモノだと、一般社会に浸透して行った。
実際、そういった者達は『楽園』やニンフ達の様子を非公式な場でよく語り、そういった認識を促進させて行った。
期間の長い『楽園』への審査は、そういった資格審査に使われるモノだと信じられていた。
しかし審査の３ヵ月の殆どは、ウイルスチェックと遺伝子変異の度合いの確認に当てられる。
スクネ・タダツネは財力や経歴、地位や名声が審査に一切無関係を事は知っていた。
今の人口曲線ではニンフ達に適合者以外の遺伝子をカップリングする余裕は人類に全く無かった。成功者たちに宛がわれてるのは（彼らが自覚してるかどうかはわからないが）”偽の楽園”―――ニンフやカロンではなく、我々と同じ一般的な人間で構成された舞台装置の中の”ごっこ遊び”に過ぎなかった。
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カリオペーやニンフ達が自ら「要望」を出す事は殆ど無いと言っても良い、『楽園』は彼女達の望む物が最初から用意されていたからだ。
『楽園』は人類が最盛期を誇った２０世紀末から２１世紀初頭をエミュレートし作られていた。
それは文化や経済、社会情勢のみならず、世界の紛争や大規模テロすらも、ニンフ達には人格形成の素材、或いはタナトス的刺激物として報道が再現されて放送されていた。
『楽園』の管理者たるカロン達はニンフ達にも当時の人類のブレイン・マップや神経構造を望んではいたが、一定以上の成果が見られる事は無かった。
この『楽園』はニンフとカロンそれぞれが”合意の上の鳥籠”に過ぎなかったからである。
管理者達がニンフ達を必要とした一方、ニンフ達は完全に近い管理を望み両者の利害が一致した。その上で実質的には人権や人格権は無視される可能性も高かったが、３００年前の大戦期の一人の研究者の提言でニンフ達の人格形成や生活環境に関しては考えうる限りの配慮が敷かれた。
しかしながら、鳥籠は鳥籠に過ぎない。例え最良の環境、自分たちにとって最良の選択と知っていても―――
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スクネ・タダツネは父子共に一等優良市民であり、ゲノム変異予防ワクチンも最低摂取の範囲内、いわば『楽園』の外ではエリートに位置している。
そして彼はオールド・ハッカー、僅かに残ったネットワークを駆け巡る希少な人間でもあった。
既に世界のネットワークは暗号と使用されるAIの性能によって階層化されており、最上位に位置するカロン達のネットワーク群は、分散コンピューティングによって下位ネットワークの暗号を
いとも簡単にクラックし、一方的な支配構造が出来上がってはいたが、データの多重偽装と複合暗号で、短時間なら上位コンピューターを出し抜く事が可能だった。
彼らハッカー達は上位コンピューターが破棄したデータや通信記録を漁り、『楽園』に関する情報や、ニンフやカロン達の情報、さらに市民から隠された情報、当局の嘘の数々を発掘しようと足掻いた。中には、偽データを掴まされて罠にはまり命を落とした者や、逆に弱みを握られカロン達の犬になった者、情報の大波の中で疑心暗鬼となり、精神を病むものも少なからず存在した。
そういった中でタダツネは、上位コンピューターのデータのゴミの中から、『楽園』に関する情報を復元できたのである。
そのデータは膨大な一般人のゲノム変異解析データであった。タダツネはこれこそが『楽園』への鍵だと確信したのである。破棄データから拾ったデータの殆どがゲノム解析であり、カロン達はマシンパワーの殆どをゲノムの解析に使っている、間違いなく素行や家柄など二の次でこのデータを元に、ニンフ達との遺伝的適合者を探していたのである。
その中でも『楽園』内でニンフ達と直接会える最高の適合者は極少数であった。殆どはICSI（細胞内精子注入法）を使いAU（人工子宮）を組み合わせた母体に負担を掛けないカップリングが行われ、男女問わずニンフ達との直接接触は最低限度に抑えられていた。
しかしタダツネは一つの抜け道を見つけた―――
人間からのゲノム採取は人の手による採取と手動入力で行われていたのである。これは生来のゲノムとの変異度を比較する為にどんな技術を持っても仕方のない作業だった。タダツネは自分の生体サンプルを保存し、定期健診の度にサンプルを保存したものと取り替えた―――
そして１７歳も終わりとなった月に、『楽園』への招待状が届いたのである。
タダツネは僅かな時間であるが、罠にはめられて消えて行った他のハッカーの事を考えた。
だがしかし、結局彼らは罠だろうとなんだろうと、本当の希望を抱いていたのは事実である。
既に枯れて朽ちつつある今の生活より、命が代償でも一瞬の希望を抱ける事は特権なのではないだろうか―――？
彼は、『楽園』へと足を踏み入れる決心を固めた。
（続く）
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