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2015年03月04日09:42

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人生意気に感ず「屑糸工場と楫取。百歳に近い人から。大川小をのこせ」

◇昨日午後新町公民館で楫取の講演を行った。ここでは初代県令楫取素彦の功績に関して新町屑糸紡績所に触れた。この紡績所は富岡製糸所に続く官営模範工場であり明治政府の殖産興業政策の柱を成すものであった。
 講演では次のような時代の推移を示した。日米通商条約、横浜開港、上州の生糸の流れ、日本で最初の器械製糸所(前橋に)、富岡製糸所(明治5年)、楫取の赴任(明治9年)、新町屑糸紡績所(明治10年)。
◇屑糸はそれまで生糸に出来ない廃物的なものと扱われ外国に安く輸出されていた。ところが外国の技術はこれを立派な生糸にすることを可能にしていた。この目的で作られたのが新町屑糸紡績所で、政府の力の入れようは大変であった。
 明治10年10月の開所式には大久保利通、大隈重信、伊藤博文などの高官が出席し、県令楫取は祝辞を述べた。翌11年には明治天皇が行幸され、作業を実際検分し所員を激励した。
 公民館では80人を超える人々が熱心に耳を傾けた。私は前日の県会のことも語った。「私の県議生活最後の舞台でした。楫取の教育の面に於ける功績には極めて今日的意味があります。今の日本人は自分の欲ばかり求めています。日本人の心が貧しくなっております」こう言った時、頷く人々の姿があった。「ですから、道徳教育の面で、もっと楫取を生かせと教育長に迫ったのです」「その通り」とつぶやく声が聞こえた。
◇私の一般質問に多くの人から電話が寄せられた。その中に100歳に近い生方大六さんの元気な声があった。声は内面から生み出されてその人の真実を伝える。電話は姿が見えない分、声の重みがストレートに伝わる。若くて力強いのだ。私は74歳。これからだという感を抱いた。目標にして頑張りたい。
◇2日の議会質問で新潟県刈羽の原発の危険と群馬の地震対策につき危機管理官に質問したが時間が足りなかった。「3・11」が風化しつつある。最大の教訓として生かさねばならないのに。
「大川小・残すか解体か」という事が問題となっている。船越小は裏山に登って全員助かった。大川小は50分児童を校庭にとどめ裏山に登らず84名が犠牲に。対照側は最大の教訓を突きつける。被災した校舎を震災遺構として保存するか否か。歴史の証人として保存すべきだ。(読者に感謝)

☆私の後継者、萩原ゆうじ君は慶応卒・30歳の公認会計士。知性と信頼をと意気込む。
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