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2014年11月23日20:58

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「読み人」知らずの手紙

 亡くなられた故人を偲ぶ会、というのが世間ではときどきあって、私のような世捨て人にも案内が届くこともある。
 文化の日から少し経った頃、一通の案内が届いた。今年の8月30日、64歳で亡くなられた作家の「お別れ会」のご招待だった。私はその女流作家担当ではなかったし、親しい間柄ではない。彼女の長編小説が好きなこと、長編のなかでソローを引用されていること、2度ほどインタビューでお会いしたことという3つの理由から大胆にも献本する愚挙に出たに過ぎない。平たく言えば、ただの愛読者でしかない。
 しかし案内状を目にして、お別れ会に出席すべきでは、と一瞬考えた。亡くなられたあとに知ったことだが、作家は2年も3年も前からガンと闘病されていて、(身近な)死を前提に創作活動をしていて、お別れ会の案内を出す人間についても生前、リストアップしていたかもしれないからだ。
 案内状と返信用はがきが入った封筒をテーブルの上に置いて、20日近くが経ってしまった。11月25日までに出欠をお知らせください、とある。
 一日一日と日が経っていった。欠席に○をつけて出せばそれで終わる。少しずつ出席する気も失せていった。にもかかわらず、投函しなかった。その白い封筒を見るたび、気持ちのなかで作家を偲んでいた。
 あと2日に迫った今日、私は宛先人不明のまま、手紙を書いた。彼女との関わりについて。3月8日に出た詩集に寄せる気持ち。なにより自分が彼女を偲んでいること。
 誰が読むのだろう。会の事務を仕切る編集者だろうか。作家の伝記を書くならこの人と目されたライターだろうか。作家と長らく暮らした男性だろうか。
 特定の人に読んで欲しいわけでもないのに手紙を綴る。無意味ではない、と思う。自分なりに死を悼みたかった。
 
 今日も快晴だった。
 風呂の残り湯で晩秋用に着たいシャツやジャンパーなど5枚を手洗いし、カタチをよく整えながら干した。今日みたいに空がきれいだと、目の前で光の粒や束があちらこちらで乱舞しているように輝く。女流作家はそんな光景を私の百倍、文学的に描写していたが、要はこんなことだ。そして、あの美しい光はいま目の前で見える光ではない、などと詩の一節で表現していたのだが、私はそこに老いと追憶を謳った情景だと理解し、死を前提に綴られた想念だとはつゆ考えつかなかったのだった。
 3連休が終わったら、今年こそ住所録を整理しよう。
 日々、少しでも前進したい。
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