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2014年11月18日00:50

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名作コラム・エリオット「荒地」 〜コラージュの迷宮、文学の共鳴とリフレイン、20世紀モダニズム〜

 さて久々で第4弾になる名作コラムはT.S.エリオットの詩「荒地」を取り上げたいと思います!
(通し訳+作者原注:http://sky.geocities.jp/writingslate/wasteland.html
(訳+解説+原文:http://poetry.hix05.com/Eliot/eliot.index.html
 作者のT.S.エリオットは私の好きな作家ボルヘスが作中でも言及した人物であり、更に中学時代から聴いてるJoy divisionというバンドのヴォーカル、故イアン・カーティスが影響を受けたと言う作家でありまして、最近では某アニメのシビュラシステムの名前の由来となった、「クマエのシビュラ」が序文に出てるという事で、以前から興味を持っておりました。
 で、近くの本屋で岩波書店版の”荒地”を見つけ、ここ一ヶ月近くかなりのめり込んで読んでいました!(゜∀゜)

 で、今回解説したいのは
1.コラージュとモダニズムの手法
2.言葉による文明への反抗
3.私見、モダニズムが残したもの
 と、単行本のページにして5章36ページの詩に、一ヶ月以上、
今もなお入り込んでる内容をお話したいと思います(・ω・)ノシ
〜〜〜〜〜

 まず、リンクをざっと読んでもらうと解ると思いますが、「荒地」は5章からなる複雑で難解な詩になり、例えば一章「死者の埋葬」をエリオットの原注どおりに辿ったとしても、

 春の風景→夏のミュンヘン→古代バビロン→円卓の騎士トリスタンの船上→女占い師の館→”非現実都市”ロンドン→紀元前のシチリア

 この様な突拍子も無い場面転換が行われていきます。
 これはいわゆるコラージュの技法で、日本で言う所の「本歌取り」の手法が持ち入れられていまして、それぞれの場面は古典小説(ダンテ、チョーサー、ボードレール等)、戯曲(シェイクスピア、ワーグナー、ウェブスター等)、聖書(エゼキエル、伝道の書)、更に筆者自身の体験とがコピー&ペーストされていまして、それが大きな全体像を形作っている形式です。

 そしてこの作品の全体像は「アーサー王と円卓の騎士の聖杯伝説」であり、フレイザー名著の”金枝篇”に書かれたオシリス、アティア、アドニスの植物神の死と再生になります。

 単純に、詩単体として詩情や場面を楽しみ、不可思議な雰囲気に浸るのも一つの楽しみ方だと思いますが、この詩の場合は隠されたモチーフや隠喩、その前後を繋げる事で本来の意味を紐解いていくと言う、
 『詩そのものが迷宮化していて、読む行為が謎解き』という楽しみ方も有るのです。

 私がこの『荒地』の読解に時間を掛けていたのは、既に読んでいた”本歌(引用元)”も有ったとは言え、出来るだけ詩本来の意味を読もうと、他の引用元も大分漁っていたからだったりします
(* ̄w ̄*)ノシ
〜〜〜〜〜

 では、こんな複雑で読み難い作品を作って、エリオットは何をうったえたかったのか?
 まず詩全体に見て取れるテーマは、アルゴリズム化した現代都市文明への強い批判です。
 詩の書かれた一次大戦直後の荒廃を”死んだように生きる”都市文明のアルゴルズム化したロンドン市民に象徴させ、聖書のソドムやゴモラ的、あるいは古代カルタゴの様な退廃を比喩として持ち出し、
 そして4章、5章でその退廃からの浄化と復活の物語を描いています。

 更に、引用を用い、何度も同じイメージ、同じ場面の繰り返しにより、「荒地」の内容の厚みだけではなく、”不変なはずの引用元の意味”すら共鳴して変化していくのです!

 この過程は複雑なので、一つだけ例を挙げておきますと、
一章のタロットカードの首吊り男(水死が預言される)が、水没するオフェーリア(ハムレット、シェイクスピア)、水死したテンペスト(シェイクスピア)の王となり、水死したフェニキアのフレバスと変容していきますが、順に磔刑のキリスト、エジプトのオシリス神、ロンギヌスで傷を負った漁夫王(アーサー)、フェニキアのアドニス神となり、
 これは単純に著者が羅列しただけではなく、アーサー王のモチーフがキリスト、更にキリストのモチーフがオシリスやアドニスだったという事を示唆してるのです。

 実際に、キリスト教やアーサー王伝説が様々な各地の神話から成り立ってる事はこの詩のずっと後、20世紀後半に証明されて行きますが、聖書や神話に残る”共鳴”を繋ぎ合わせる読み方も、この詩は既にやっていたという事になりますね。
〜〜〜〜〜

 最後は私の私見となりますが、こう言った文明や科学への反抗は文学者の資質としてはある種生まれつきの当然のものだと思います。SF作品でも行き過ぎた文明への警句を良く扱うわけですしね。

 19〜20世紀は一気に発達した文明と科学の唯物論に対し、唯心論が抵抗を繰り返す時代ですが、素晴らしい作品が沢山生まれたとは言え、当然科学を否定する事は出来なかったわけです。
 ただ私がエリオットの様なモダニズムや、ボルヘスの様なポストモダンの作家から感じるのは、
「言葉を、文学や小説、散文と言った物から、古代の魔術に引き戻そうとした」
この一点だと思いますね。

 理路整然として、解り易く面白い文学や小説は確かに魅力的なものですが、大量生産と大量消費で古来の本当の価値ってのは大分失われてしまいました。
 彼らは古代の言葉の本当の姿に、文学と体系化される前の力を取り戻したかった、と
 今の時代に彼らの作品を読む私はそう考えてしまうのです、

では今宵はこのへんで(・ω・)ノシ

by 拓也 ◆mOrYeBoQbw
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