前人未到の大台地、風穴の先の鍾乳石の迷宮、過冷却の様な冷たい地底湖、そして無限とも思える長い竪穴を降って、吟遊詩人のアルベルトは常人では辿り着けぬ深淵の底を目指しました。
アルベルトは世界のあらゆる王族、皇帝、教皇、スルタンから、あるいは詩吟と歌を生業とする全ての者から、最高の吟遊詩人であり芸術家であると褒め称えられていました。
彼の奏でる叙事詩の究極の美しさは、他の分野の最高の芸術家や彼に勝るとも劣らない吟遊詩人たちに評価され、世界中で彼の歌を模倣し学ぶ為の王立学校や私塾が増え、彼と直接会った事が無いものでも彼の素晴らしさを語るのでした。
しかし、それがゆえ、アルベルトの作品に対する悩みや苦悩に対して答えを与えてくれるモノは既に人の世界には存在せず、彼は自分の名声と、自分の作品にある苦悩とのジレンマに思い悩み、
そして、とうとう人外のモノに答えを求めようと、古代の言い伝えを研究し、たった一人で地獄の底のような地底世界へと降り立ったのです。
最深部に降り立ったアルベルトは、時の感覚を失った闇の世界で、手持ちの明かりと自分の感覚を頼りに奥へと進みました。
数度の食事を取り、数度の仮眠を取り、奥へ奥へと進んだその先に、今までになかった獣の臭いと体温を感じ、そして鍾乳洞にへばりついたヒカリゴケや夜光茸の明かりに照らされた、月色の巨体が視界に入ってきました。
アルベルトは巨体に向かって声を挙げました
「私の名はアルベルト！頼む目覚めてください！終末の巨獣、世界の原初から終わりまで生きる事を義務付けられ、その全てを知るバハムートよ！」
地下の巨大な空洞に横たわり、植物の明かりに照らされた巨獣バハムートはピクリともせず、
ただ僅かにその目を開き、人間の言葉でアルベルトに答えました。
『如何にも予はそなた等の言葉でバハムートと呼ばれる存在だ、だがもはや終末の獣ではなく、天帝より与えられた、
人間の糧としての役目も既に失われた・・・・その予に人間が何の用がある？』
「役目が失われた、とはどういう事ですか？」
『既にこの人間の世界に救いが来ぬ事は明確になった。アルベルトよ、ここに来た知慧者なら解っておるであろう、
予もそなた等も、天帝によって救われる事も滅ぼされる事も無くなった。
ただ緩慢にゆるりとそれぞれの落日を迎えるのみ・・・・』
「バハムートよ、私は人間の救いや貴方を糧にする為にここまで旅したのわけではありません、
黄昏を憂いる貴方や他の人類には幾らかの同情は覚えますが、
私は貴方の人を超える知識を頼りたくここに来たのです！」
その言葉を聞いて、バハムートははじめて首をもたげ、興味深そうにアルベルトの姿を見つめました。
人間の中に、救いや自分の利益ではなく他の何かを求める者がいる事を知り魅かれたのです。
『アルベルトよ、予に何を望む？予が答えられる事なら答えよう』
「私は吟遊詩人です。世界の有り様、愛と戦争、生と死、男と女、星の流れと月の動き、
あらゆる存在を言葉と曲に変えて、様々な人達に賞賛されてきました。
しかし自分には判るのです。自分の言葉では何一つ世界の本質や正体を表現していないと！
バハムートよ教えてください！この世界の本質を表す究極の言葉と音楽を！
代償は私の命でも構いません、あるいは一国が海に沈むほどの犠牲を払ったとしても、
存在するならばその究極の言葉の代償として私は何も惜しくないと考えています！」
バハムートはその言葉を聞き、少し間を置いて、静かに答え始めました、
『小さき友人よ、そなたの望みは理解した、確かのそなたの言う究極の、真の言葉は存在する』
アルベルトはその返答に一瞬目を輝かせました、が
『・・・・・・しかしそれは人の理解しうる言葉や数式、定理ではどうあっても表現出来ぬものだ。
そなたの知慧と知識は今の人類では最高と思えるものだが、理解するには遠く及ばぬ。』
アルベルトは必死の形相で巨獣に問いかけました、
「そのようなものでは私が救われません！
お願いです、少しでも究極の言葉に近づく手がかりを・・・・・
そうでなければ、私達がその言葉に辿り着けない理由を教えてください！」
バハムートはまた静かに口を開きました。
『まず一つは、人間の知慧や知識が進化していく様に、真の言葉も少しずつその歩みを進めていく。
そなた等は一つの言葉の謎を解き明かすごとに、再び新たな謎が１つではなく３つ、４つに立ちはだかる。
そなた等と真の言葉の間の距離は歴史と共に縮むのはそれもまた真実ではあるが、
真の言葉に手が届く事は、有限の時間の中では有り得ないのだ。』
『そしてもう一つ、小さき友人よ、その足元に有る小石を一つ取れ』
アルベルトは、巨獣に言われた様に小石を一つ、手に取りました。
『もう一つは、そなた等の言葉に対してこの世界が広すぎる事だ、
今この瞬間、そなた等の言葉ではその小石の本質を、その全てを表す事も出来ぬ、
しかも小石は風食や流水でその姿を様々に変え、そなたより長い一生を送る。
そなたは言葉で、音楽でその小石を言い表す事が出来るか考えてみるが良い』
最早、アルベルトの顔に生気は無く、肺の底から搾り出すような声で、バハムートに懇願しました。
「バハムートよ、私が生きてる間に真の言葉を理解し、奏でる事が不可能な事は重々理解した・・・・
ならばせめて、”真の言葉は確かに存在する”というその証拠は見る事は出来ないか？
人類が理解出来ずとも、世界の始めと終わりを知る貴方ならそれが出来るはずです・・・・」
『良かろう、これが別れの餞別だ小さな友人よ』
バハムートは静かに、アルベルトには聞き取れるか聞き取れないかの発声と音律で、何かの言葉を呟きました。
そうすると見る見る間にアルベルトの持つ小石が軽く、半透明になり、最後には掻き消えてしまいました。
バハムートはアルベルトに向かって呟きました。
『何が起こったか解るか？賢き小さな友人よ』
アルベルトは頷きました、
「貴方がこの小石の真の言葉を奏でたのだ、天帝はこの世界に同じ物が同時に存在する事などは許さない。
貴方の言葉が小石の全てを表す言葉であったが故、小石は最早この世界には存在しなくなったのだ。」
その言葉を聞き、バハムートは満足そうに微笑み、再び大空洞の中にその巨体を横たえ、伝承によって言い伝えられる白金の鱗が、再び苔や夜光茸で月色に輝くのでした。（完）
注・バハムート・・・・・ビヒーモス、ベヒモスとも、世界の終末にリヴァイアサンと死ぬまで戦った後、残った身体は終末で生き残った人類の食糧となると旧約聖書に書かれた巨獣。中世以降は悪魔の一柱としても知られる。
by 拓也 ◆mOrYeBoQbw
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