それはティトゥス帝が即位して丁度二ヶ月が過ぎた時でした。
ヴェスヴィオス山の各所から異臭を放つ煙が吹き上げ、ヘルクラネウムやポンペイの町が度重なる群発地震に襲われている、という報告がローマに届いてきました。
火吹き山＝火山の存在はギリシア時代から記録や賢人達の知識にもあり、僕だけではなく、ヨハネスや他の学者達もヴェスヴィオス近隣の住民の避難と、都市の一時放棄、火山の観察をティトゥス帝に訴え出て、皇帝及び元老院の了解を得て調査艦隊を派遣する許可を得ました。
艦隊司令は僕が任ぜられ、副官に甥のカエキリウスを、更に艦隊の人事を進め、軍艦一隻を中心に、住民を移動させる為の商用輸送船による艦隊を編成して、ヘルクラネウムとポンペイに向けて出発しました。
ヴェスヴィオス山を臨むナポリ湾に艦隊が到達した時、僕は船上からヴェスヴィオス山の山頂に、竜の巣の様な天空に向かって渦巻く巨大な黒雲と火山の噴煙を確認し、そこから何本もの落雷がヴェスヴィオス山に放たれてるのが見えました。
これは異常な速度で噴煙が吹き上げられる為に、黒雲と地上の電位差が極端に大きくなって起こる現象です。”眠り”が僕に与えた知識が、この現象の答えを導き出しました。
僕たちの艦隊の居るナポリ湾の西端から、位置的に近い順にヘルクラネウム、ヴェスヴィオス山、ポンペイとなっていましたので、手近なヘルクラネウムから住民を拾い、その足でポンペイへ、その後火山の様子を安全な位置で確認する為に、風の様子を見てナポリ湾の東端か西端で待機する、と言う計画を立てて再び帆を上げました。
が、当日の北西の風が非常に強力で、軍艦一隻のみならず商用の輸送船も率いていた事から、艦隊は風と沖に向かう潮に逆らう事が出来ずに、ポンペイの更に東のスタビアエという寒村に到着する事となりました。
スタビアエからポンペイまではローマ街道が通っていましたので、艦隊をスタビアエに待機させ、まずはポンペイに居る住人の退避活動を支援する為に、ローマ街道をポンペイに向かう徒歩の部隊を編成しました、無論僕が地上部隊の隊長でもあります。
スタビアエへ接岸した頃から、僕達は空から降ってくる軽石に悩まされました。
部下達は口々に「敵襲か？」「エルサレムの反乱軍が潜んでいるのか？」とどよめきを挙げましたが、僕が
「非常に高い高度で噴煙が冷やされ、それが石になって降って来たのだ」
と説明すると、不満や疑問を漏らしながらも、落ち着いて元の仕事に戻って行きました。
軽石によって、戦闘でも無いのにヘルム（兜）やジャーキン（上半身鎧）の完全装備での地上行軍を余儀なくされましたが、ポンペイに向かう道すがら、この行軍が無駄ではない事が徐々にわかってきます。
ポンペイから脱出した人々がヴェスヴィオス山から少しでも離れようと僕達が来た道程を、大勢で逆に進んでいるのです。
僕は彼らのリーダーや、あるいは僕の顔を見知ったポンペイの執政官を行列の中から見つけ出し、艦隊が停泊してる位置を教えました。
あとは甥のカエキリウスと僕の部下達が、疲労で歩けない者は艦船に収容し、歩ける者は安全な位置まで誘導し避難させる事でしょう。
ポンペイの執政官は僕に、都市にはまだ避難せずに200人ほどの住人が残っている事、更に徒歩で逃げたのではなく、地下室や穴倉に逃げ込んだ者も多かった事を別れ際に伝えてきました。
――ガスや溶岩で助からない――
僕の頭に入り込んだのはそう言った言葉でした、僕はポンペイまで進軍する事を決定しました。
部下達には先に危険な事を伝え、志願者のみを同行させる事にしましたが、ローマの精鋭たちは全員僕と同行する事を選択しました。
噴煙を吸い込まぬよう、鼻と口元をマントで覆い、皆でポンペイまで進んで行きます。
ポンペイの街は、20年前に建造された計画都市でローマ的な華やかなモザイク画や色とりどりの通りが自慢の風光明媚な都市でした。
しかし我々の前に広がったのは、建物の屋根も通りも、真っ白な灰と軽石によって一色に染まった風景で、時折、忘れられた家畜達が通りを横切ったり、いななきをあげていました。
僕達は各個に残留してる人間を捜索し、太陽が水平線に掛かるか、あるいは地震と言った大きな異常が起こった時に、街の東門に全員落ち合う段取りを立てて、それぞれに分かれて行きました。
僕が担当したのは中庭のある貴族の屋敷で、友人の家でもありました。
オリーブを植え、噴水が備え付けてある自慢の中庭も灰にまみれ、僕も鎧やマントが灰で白くなりながら、マスク越しのくぐもった声で友人やその家族が残っていないか、屋敷の中をくまなく歩き回りました。
そして最後と思われる部屋――友人夫婦の寝室――の扉を開けると、そこにはそれまで見てきた白一色の世界ではなく、床も壁も天井にも幾何学模様のモザイク画が配され、鉢にはアフリカか東洋からもたらされたであろう、ローマで見る事の出来ない植物の数々、更に乳香とは違った、伽羅木を使った芳しい香が焚かれていました。
「おや、やっと来たね」
寝台の上に小柄な人影が一つあり、僕に向かってそう言い放ちました。
「僕はここの住人を助けに来たんだ、君はここの住人か？それとも勝手に入り込んだのか？」
僕は人影に向かってそう答え、様子を伺いました。
それは横になってこちらを見てる少女か少年のようであり、古代ギリシアの彫刻の様な風貌と衣装を着たローマ人ではない人間でした。
「随分と余所余所しいじゃないか、妾（わらわ）とは長い付き合いなのに・・・・任務に打ち込んでる時には、多少なりとも”眠り”の恐怖やそれに類する感情が中和されてるようだね。」
その言葉で、僕は彼女の正体に関して、幾つかの仮説を思いつき、直接それを彼女にぶつけて見る事を決めました。
「僕は君が神や悪魔の類とは言うまい、おそらくもう僕の記憶の容量は限界に近づいていて、幻覚や幻聴を見る段階に至ったのだろうと思うよ、あるいは噴煙のガスの中毒症状で、現実と区別が付かないような幻覚を見ているのか・・・・」
僕は篭手を外して、ベッドの上に居る彼女の顔や素肌を触ってみました。
やはりそこには人肌の温かさと少女の肌の質感が感じられ、現実か、現実と区別の付かない幻覚、という2つの選択肢が残りました。
少女は言葉を続けます。
「まあ貴方程に知識を持ってれば、妾が神だの悪魔だの名乗っても、自分の出す結論しか信じないのはわかっていたさね・・・・
でも、貴方は神も悪魔も信仰も、全て人間の中にしかない事に既に気付いてるはずだ。
妾が貴方自身が作り出した幻覚だとしても、こうやって語る妾の言葉は元々貴方の心の中にあった言葉だ、違うかい？」
僕は内心ニヤリとした、彼女の言う事は確かに僕が得てきた教訓の一つです。
結局人間は自分の主観を通してしか物事を考えられないのだ、僕が”眠り”という虚空から得てきた知識も、全てではないが僕の執筆や経験によって反芻され、僕の本当の知識となっていきます。
僕を悩ませていた不安は、立証や経験出来ない知識がもたらす、現実と狂気の間の薄氷を踏んでいく狂気だったのです。僕は少女に問いかけました。
「幻覚にしても館に忍び込んだ山師にしても、なかなか面白い事を言う人ですね。
僕の脳の限界や、あるいはガス中毒が見せている限界だったら、僕の命はそう長くはないのでしょう、
どうせですから、君が持っている僕の運命や世界の真実について、君の口から全て語ってくれないでしょうか？」
彼女は少し寂しそうに、首を横に振りました。
「残念だけど、それは妾の役目じゃないと思うよ・・・・
妾は貴方に、最後の選択肢を与える為に会いにきたんだよ。」
「選択肢？」
「そう、貴方の予想は半分は当たってる、このまま”眠り”によって知識を増やし続けたら、貴方の脳神経が耐え切れなくなってそのまま命を失ってしまう。
ただ貴方にはもう一つ別の選択肢も与えられる。
記憶の殆どを失う事によって命を永らえる事だ。」
「僕の症状が治るのか！記憶を無くす範囲はどの程度なんだい？」
「肉体が習慣として覚えている事以外は、ほぼ全て忘れて赤子になると思えば良い、可能な限り貴方の知識は残したい所だが・・・・脳神経が複雑で、一箇所のみ消す、なんて事は到底不可能なのを、貴方も気付いているのだろう？」
「・・・・・では逆に、僕の”眠り”を命の限界まで使って、世界の真理に辿り着く事は出来るのかい？」
「それも妾には答えかねる、少なくても世界最高の賢者にはなれるだろうけど・・・・、どうなるかは貴方が一番良く解ってるね？」
「・・・・・わかりました、では明日またここで会いましょう」
「貴方が言うなら、明日またここで」
彼女と会ったその夜、僕は集合場所の東門ではなく、離れた高台にキャンプを張りました。
部下達には一人で考えたいことがある、と護衛を断わり、今こうやって僕自身の物語をパピルスに認めています。
結局僕は、明日彼女に再会するその時に結論をだそうと、そう決めた。
僕が記憶を失う決断をしたら、僕がどうやって膨大な知識を得てきたかを後世に伝える事が出来なくなる。つまりは今書いているこの物語が治療や、運が良ければ記憶を失った僕の回復に役立つものと僅かな可能性に掛けているのです。
そして僕が”眠り”の内に世界の真理へと到達する旅を始める選択をした場合――
おそらくその場合も、次の”眠り”から目覚める事はなく、僕はそのまま命を落としてしまうのだと思います。
つまり、その”眠り”の旅で得る知識は友人達やローマの皆に伝える事は不可能になるでしょう。ですので、僕が今書き残せるだけの知識をここに書き残しておきました。
そしていずれ、未来の賢人達が、この物語を理解し僕を理解してくれると信じています―――
〜〜〜〜〜
パピルス発見者・補記
以上、『博物誌』で名高いガイウス・プリニウス・セクンドゥスの手と思われるローマ時代のパピルスを翻訳したものである。
書簡の真贋と年代測定に関しては後日の鑑定を待つとして、プリニウスのその後の顛末について追記しておきたい。
彼はスタビアエに上陸した翌日、被災者と避難民の誘導中に単独行動をして一時的に行方不明になったらしい。その後、部下が海岸で意識不明になっているプリニウスが発見され、直ぐに艦隊の旗艦に運び込まれて治療が行われたが、
その二日後、ナポリ湾の西端に艦隊が到達する直前に息を引き取ったと記録されている。
甥のプリニウス・カエキリウスは、叔父が以前から喘息を患っていた為、部隊の中で唯一、亜硫酸ガスによる中毒死したのだろう、と友人への書簡で述べているが、医療の発達していないローマ時代においては、真の死因は特定不可能であったろう。
プリニウスは世界初の百科事典となる『博物誌』やその他にも武具や風土、地理に関して100冊以上の著作を残したが、残念な事に『博物誌』以外は殆ど失われ、現存するものは存在しない。しかし彼のその知識の根源が何にせよ、当時のローマ文明やローマと交わる文明が持つ情報を足し合わせても、プリニウスの持つ知識のひと欠片にも満たない事は明白である。
（完）
by 拓也 ◆mOrYeBoQbw
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