――もしもそのようなものが存在するなら、慈悲深き神々よ、意思の力もなければ、人間の狡猾さがつくりだす薬物もない刻限に、私が深い眠りの穴に落ちこまずにすむようになさしめたまえ――
ハワード・フィリップ・ラブクラフト『ヒュプノス』
睡眠は忘却をもたらし、忘却は人に悦楽をもたらす。
僕がわざわざ書く事も無く、これは人間が地上に生まれ出でてからの事実であり、動物や魚や鳥達すらも睡眠の悦楽を受ける権利を、この宇宙から受けているのだと思います。
ただ独り、この僕を除いては。
僕は、僕の身にどんな事が起こり続けているのか、そしてこれから僕が何をしようとしているのかをこれから出来るだけ簡潔かつ明確に書き残そうと思っていますが、実際の所、僕と同時代の人達に全て理解して貰えるかどうか疑問があり、可能な限り、未来までこの文章を伝えて貰い、何時の時代にか謎を解いてもらう事を願います。
僕が自分自身の症状に気が付いたのは20歳かそこらの青年の頃、コモ（北イタリア）の田舎からローマに赴き、兵士として採用され、ローマがトイトブルグの戦いによって失地したゲルマニアの遠征に加わった頃からです。
新兵でしたが文字の読み書きが出来た僕は、什長となり9名ほどの部下を引き連れる隊長となりました。
尊敬すべきユリウス・カエサル公がガリア戦記に記したとおり、ゲルマン族は戦闘民族であり、馬術や弓術、槍術いずれもゲルマン人の能力は高く、ローマはゲルマニア領地を長い間取替えせずにいました。
僕の隊が最初に配属されたのは、ライン川沿いのゲルマン人の砦攻めで、正面は高い城壁に囲まれ、後方は川沿いの崖というゲルマンの要所中の要所で、数万ものレギオン（ローマの軍団）を寄せ付けなかった砦です。
ローマ軍は砦を包囲するものの、高台から撃たれるゲルマンの弓の射程に入る事は無く、時折騎兵や槍兵で突撃を試みては、ゲルマンの弓と高い城壁に屍を晒すだけでした。
そして明日か明後日、僕の隊にも突撃命令が下ると、将軍から通達がありました。
夏も近づいたその日、初陣で命の危険に晒された僕の顔色は相当に悪かったのでしょう、部下の一人が僕に塩の利いた干し肉とぶどう酒を差し出しました。
「什長元気出しなされ、運が良ければ片足や片手くらいで済んで、そのままローマに帰れまさぁ」
傷だらけで戦争慣れしたその部下がそう言いました、
「有り難う気持ちは受け取っておくよ、今はまだ食欲がわかないんだ・・・・、でもその干し肉とぶどう酒はどうしたんだい？」
私は彼にそう質問しました。
「これは近くのガリアの村で調達したもんでさぁ、なんでも今年は日照り続きで、作物じゃ足りないから獣を獲って保存食にしてるらしいですよ。」
「日照りか、しかし干し肉やぶどう酒を売るほど準備してるとはガリア人も用意が良いのだね。」
「ええ、何でも3年前も似た様な天気で、夏至から20日は雨が無かったそうですぜ。」
その夜、僕は夢を見た・・・・夢の内容は思い出せないが、何やら恐ろしい夢だったと思います。
そして僕は恐怖で飛び起きる、これが死に対する恐怖なのかと一瞬そう思ったが、直ぐにそうではない事に自分自身で気が付きました。
月明かりと夜の闇、僅かな焚き火の燃え残りの明かりの中、僕の頭に浮かんでいたのは、城壁から次々と射抜かれ落ちていくゲルマン兵の姿、そして焦って門を開き、準備万端なローマの槍兵方陣の中に飛び込んでくるゲルマン騎兵の姿だったからです。
――どうして？――
窮地に追い込まれた僕の妄想か幻覚を見ているのかとそう考えて、思い出せる範囲で夢の内容を地面に羅列してみました。
そして答えはその中に見つかりました、
僕は目覚めたその足で、将軍の天幕へと向かいました。
僕は翌朝、什長から弓兵の百人隊長へと階級を上げられ、砦攻めを命じられました。
――僕の命令は一つ、夜が開けたら焚き火の近くで弓の弦を張り替える事――
そして将軍や他の百人隊長達は、槍兵方陣を敷いて、ゲルマン軍を待ち構えます。
開戦。
勝負は緒戦の時点で決まりました、僕の率いるローマ弓兵の矢は次々城壁の上に居るゲルマン兵を仕留め、さらに城壁を越えて中に居る守備兵も打ち倒して行きます。
高さがあり、射撃戦にも有利なゲルマンの弓兵達の矢は、一本たりとも僕の部隊に届きませんでした。
そう、夏至から続く日照りで、寒冷地のゲルマンでは強力な威力を発揮する弓も、その弦が伸びてしまい、本来の射撃力を持っていなかったのです。
僕は将軍にそれを力説し、自分達の弓の弦を張り替える事で射程の差を逆転させたのでした。
そしてゲルマン軍は城門を開き、僕の夢と同じくローマ軍の槍と剣の前に、次々と命を散らせて行ったのです。
僕はそのまま百人隊長を務め、ライン川沿いの砦を攻略した事から、軍団にも予定より早く帰還命令が出る事になりました。
しかしながら、僕が夢から天啓や知識を受ける症状は、ローマに帰還してからも続き、それは程なく僕に睡眠に対する恐怖と苦痛を与えていくのです。
（続く）
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