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2012年07月02日15:05

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人に聞かせる「つぶやき」

ミクシィのページを開くと、最初に目に飛び込んでくるのがマイミクさんたちの「つぶやき」。多くは日常におけるちょっとした出来事や発見についてのもので、つぶやく人の人柄がにじみ出るような率直で微笑ましいものである。でも、最近はなるべく読まないようにしている。できれば、見えないようにしてしまいたいのだけど、どのようにすれば見なくて済むようになるのかよくわからない。どうも、ミクシィの重点は日記から「つぶやき」の方に移っているようなので、私の足が遠ざかる理由の一つにもなっている。

なぜかというと、「つぶやき」のなかにはちょっと叱りつけたくなるようなものがあるからである。まさか大人のマイミクさんを子供扱いするわけにもいかないし、私自身もおそらく同じような過ちをどこかで犯しているのは間違いないので、他人を叱りつける立場にも無い。だから、ほとんどの場合、ただの「つぶやき」だからと放っておくことにするのであるが、子供を叱るべき時に叱らなかったような罪の意識に苛まれたりする。

そうした「つぶやき」に小言を言いたくなる理由は、まさに子供に小言を言うのと同じ理由で、言っていることが間違っているというよりは、自分のかわいさあまりに周囲の人々にイヤな思いをさせるようなことを言っているのである。より平たく言えば、その場に居合わせない人々の悪口なのであるが、自分が悪口の対象でなくてもちょっと不愉快な感じがするような一方的で高飛車なもの、もう少しよく考えてみてから口を開くようにと言いたくなるようなものである。

自分自身に関する悪口でないものになぜに腹を立てないとならないとだろうと不思議なのだけど、そこが「しつけ」によって自分だけではなく他人の視点をも内面化してしまった人間の悲しいところで、自分が我慢してやらないことを誰かが平気な顔でやっているのを見ると腹が立つわけである。そんな焼きもちを焼く前に自分でもやればいいじゃん、と言われそうなのであるが、社会というのは互いの我慢で成り立っている部分がある。堪忍袋の緒は長ければ長いほどよいが、わざと他人の忍耐をすり減らすような真似はなるべく慎むように我々はしつけられて育つのであるし、このルールを守らない言動には不寛容なわけである。

もちろん、私も人目につかないところではかなり失礼なことを言ってはひんしゅくを買っている人間である。でも、気の合う身内同士ならともかく、多様な人々が集うネット上ではこれを見て不愉快に感じる人もいるだろうと思うと、「こらこら」と注意したい衝動に駆られるわけである。しかも、そんなコメントに何の注意や反論もつかずに、「そーだよねー」のような付和雷同のレスポンスが連なるを見ると、ますます子供の自由を尊重するばかりに叱るのを躊躇してしまう大人の罪の重さを感じざるを得ない。

もちろん、他人の悪口でも考えさせられる批評が含まれている場合もある。ちょっと挑発的なことを言って常識だと思われているものに対して批判的な思考を促すものもあるし、皮肉を通じて常識の非常識を露出させるものもある。こうした「つぶやき」はただの個人の無知や偏見の産物ではなく、何の役にも立たない雑音というわけではない。でも、中には建設的な批判ではなく、周囲の偏見に尻馬に乗りました、鬱憤ばらしに手頃な標的をいじめて見ましたといった類のものもあるのは否定できない。子供がやっていたら間違いなく「何様のつもりだ。調子に乗るな」と注意される理由になるのであるが、相手が年齢だけは大人だから仕方なく目をつむっているというようなものである。

そもそも、建設的な批判をやろうと思ったら、「つぶやき」の字数ではちょっと言葉足らずになるのは免れない。中には詩の才能があって、短い言葉で多くを語れてしまう人もいるのであるが、これは例外中の例外である。批判の対象になる人々までも潜在的な聴衆に含めるのあれば、なるべく不要な誤解を避けるために言葉を尽くして説明することが求められる。詩才も無く、「売国」のような一つのラベルや形容詞に多くを語らせようとするのは往々にして凡庸で使い古された言い回しを再生産しているだけに過ぎなくなる。もし、批判の対象になる人を聴衆から除いた身内の会話なのであれば、最初から真剣にとられる期待を放棄しているという言い訳も可能だが、冗談としても決して質のよいものではない。

ちなみに、悲しいことに、ネットで「つぶやき」が流行る前から、現実の世界は早くから「つぶやき」型政治に移行してきたようである。これは日本だけじゃなくて米国でもそうで、過去50年くらいの間に選挙のスローガンは大幅に縮んで、今日では単語四つというのが相場だそうだ。車につけるバンバーステッカーより長いものは人々の頭に残らないという、いかにも有権者をなめた理論に基づくものなのであるが、心当たりがあるだけにちょっとツラい。

こんなことを言うと、自分の気に入らない言説に対する不寛容だとか言論統制だと言われかねないのであるが、これがよく知らない人々であれば、腹は立つけど、わざわざ叱ろうなどという気にはあまりならない。むしろ、子供と同じで、知的、道徳的な資質を備えていると思う人だけに残念で、余計に注意したくなるのである。言論の自由というのは誰でも言いたいことが言えることだけど、これは誰でも反論したければ反論できるという自由とセットになって初めて言論の質の向上につながる。なんでも「おいしい」と誉めてくれる客しか来ない店の料理がおいしくならないように、何を言っても「そうだ、そうだ」と言わない限りは黙っていろという社会では、言論の自由もよいところよりも悪いところが目立ってしょうがない。

身内に限られた話であれば、こんな面倒なルールは不要であるし、そんなことを言うとせっかく身内の連帯を深める楽しい会話がやりにくくなる。仲間内でその場にいない人々を酒の肴に励ましあい慰めあうのもネットの一つの利用法であるので、それに水を差すつもりはない。でも、以前にも書いたけど、ネット問題はこの公と私の境が曖昧であるという点である。例えば、スタバなどで人種や宗教を明らかな無知と偏見で批判するようなことを大声で喋っている人たちがいれば、周りの人はそれが自分たちに向けられたものでなくても、やはり間違いを指摘したり他人への配慮不足を叱りたくなると思う。多分、お店の人からは場所を移して人のいないところでやってくれと言われるかもしれない。いかに私的な会話とは言え、こうした会話を多くの人が集まる場所で行うことを慎むことを、我々の多くは言論統制ではなく、当然の礼義として受け入れると思う。これがネットではOKということになると、明らかにネットの問題点の一つだと思う。

どうも、子供に限らず、大人の関係にももう少し「叱る」「叱られる」というのがあってもよいような気がする。「つぶやき」でもよいから、せめて互いにもう少し気軽に叱り、叱られるような習慣をネット文化の一部として育てていきたいものである。
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