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2008年12月01日13:47

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愛のうた

先日帰国した時、かみさんと娘のためにアンジェラ・アキという日本のシンガーソングライターのCDを買って来た。

ラブソングがてんこ盛りのCDで、恋の切なさや愛への信頼みたいなものが歌い込まれている。

毎日のように聞かされているのだけど、ちょっと気になることがある。

歌詞の中に「君」とか「あなた」という二人称代名詞が頻繁に出てくる。

歌の多くは恋の相手に語りかける形をとっているのだ。

例えば、

君のそばで 君と過ごす 今日は何て素晴らしいんだ
君と泣いて 君と笑う 今日を祝福したいんだ
時は流れ 花は散って 全てのものは変わるから
君と歩み 君と生きる 今日を祝福したいんだ

なんだか抽象的でどうにでもとれそうなのだが、これがキャッチーなメロディにのって歌われると結構説得力がある。

この「君」というのは歌い手が恋する相手なのだが、同時にそれぞれの聞き手が勝手に自分の経験に照らして解釈できるようにわざと抽象的になっているともとれる。

そうするとこの「君」というのは特定の人を指すのではなく、この歌を共有する人たちが想いを抱いている人の総体みたいなものである。

片思いだったり、喧嘩をしてしまったり、想いがすれ違ったりするのだけど、それでも一緒にいたい、というのが多くのラブソングのテーマである。

言ってみれば、愛に対する無条件降伏みたいなものだ。

愛の言葉というのは、突き詰めれば「好きだから好きなんだよ」みたいな理屈を受け付けない一言に還元されてしまう。

社会心理学の本によると、人間は不完全なものとして生まれつくそうだ。

自己というのは自分の中で完結していなくて、自己を完成するには他人を必要とするのだ。

英語でパートナーのことを「私の片割れ」というけど、不完全な自分を完全な者にしてくれる人という意味である。

それぞれの人間は不揃いなギザギザのある断片で、生涯を通じてこのギザギザにぴったり合う片割れを探しているともとれなくもない。

それは、自分を理解してくれると同時に、自分に欠けた部分を補ってくれる人なのである。

でも、実際はこんなパートナーというは滅多に見つからない。

この人だと思った人でも、長い間一緒にいると物足りなく感じてくる。

「私の片割れ」はどこか別のところにいるのではなんて思ったりする。

でも、例え一生自分の片割れを探し続けても、そんな人に会えるのかどうかわからない。

ラブソングに出てくる「君」とか「あなた」というのを、存在しないかもしれない理想の人とすると、それは我々の中には存在しないものになる。

そして、我々の中に存在しないものと言えば「神」である。

なんて言うと、宗教の話かよと拒否反応を起こす人もいるかもしれないけど、話はもうちょっと複雑である。

エルネスト・ラクラウという人が考えた「空っぽの能記 (empty signifier)」という概念がある。

言語学的な概念で難解なのだが、言葉というはそれを表す音やイメージとそれが指し示す対象がある。

例えば、「i-nu」という発音、「犬」という文字の表記が前者、その言葉指し示す対象としての犬が後者である。

能記というのはこの音や文字のことを指す。

「空っぽの能記」というのは対象が実在しない言葉のことを指す。

中身が決まっていないから、状況に応じて勝手に対象をつぎ込むことができる空っぽの器みたいなものである。

「神」という概念は言語システムの中でいろいろな者に対置されるわけだが(例えば、キリスト教の伝統だと絶対善の神に対して絶対悪としての悪魔)、神ではないものの一つに「人間」がある。

人間というのは神と違っていろいろな意味で限られた存在である。

まずは限られた命しかない。

そして限られた認識・道徳能力しか有していない。

また、人間の視点はその限られた経験(特定の場所で特定の時間を生きることしかできない)によって偏狭である。

神様というのはこうした人間の存在に対して、無限で万能で時空を超えた存在なのである。

こんな神が物理的に存在するのかという問いとは別に、「神」という考え自体は我々の生きる現実に大きな意味を持っている。

それは「神」という概念が「空っぽの能記」を果たしているからだと思う。

自分の不完全さに悩む我々は、その欠乏感を癒してくれる理想の人を探している。

それがラブソングなんかにおける「君」や「あなた」への呼びかけになって現れる。

でも、それは現存するどの人でもない。

不揃いな我々一人ひとりを理解して足りないところ補ってくれる存在なのである。

それを「神」と呼ばなければ、「神」なんて言葉は存在しなくてもいいような気がする。

今日では、宗教というと神社や教会に参ったり、祈りを捧げたり、お布施を上げたりという儀式的なところに目がいきがちで、日常生活には必要のない余計なもののような気がする。

でも、満たされない精神を癒す「宗教」の機能というのはこうした儀式に限らず、音楽を聴いたり、ドラマを見たり、本を読んだりという行為の中にも拡散しているような気がする。

存在しない理想の人への無条件降伏を歌うラブソングに世俗化されたゴスペルを見るのは、こんな理由からなのさ。
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