年一友人と大阪の古墳や古刹をめぐるデイツアー。今回は中世にタイムスリップできるまち・河内長野市の金剛寺へ。
楠木正成ゆかりの観心寺のほうがなんとなく有名な気がしていたが、実は金剛寺は国宝が5件・重要文化財が29件もあるすごい寺だった。
それに、先日母と行った高野山と関係が深い寺でもあったし、2年前に行った京北の
常照皇寺とも深い因縁のある寺だった。
なんばから南海高野線で三日市駅集合。高野街道を歩き「せいろカフェさくらんぼ」へ。
ランチのあと、再び高野街道を歩いて河内長野駅へ。そこから1時間に一本の南海バスで天野山へ。金剛寺の前でボランティアガイドさんと待ち合わせ。たっぷり金剛寺境内を2時間ほど拝観。雨が降り出したのは残念だったが、ほとんど貸し切りで、広い伽藍と奥の上皇御在所まで見学させてもらった。
夜は天野酒造直営ダイニング「天空」へ。
天野山金剛寺
真言宗御室派(「御室の桜」で有名な仁和寺が本山)
仁和寺は、平安時代の仁和4年(888)に、宇多天皇が建立され、譲位後に出家して仁和寺第1世宇多法皇なられたので「御室御所」と呼ばれた。それ以後明治維新まで皇族が門跡(住職)を務め、真言宗の中でも最高の格式を持つ寺院のひとつとして現在に至っている。また、新西国霊場第7番、河内飛鳥古寺霊場第8番、河泉二十四地蔵霊場第12番に数えられている。
ご詠歌: はれわたる 天野の宮の 金剛寺 古〔ふり〕にし蹟〔あと〕も 畏〔かしこ〕かりけり
縁起
奈良時代聖武天皇に帰依を受け、日本最初の大僧正の位を授けられた和泉国出身の高僧・【行基】によって開かれた。平安時代には【弘法大師(空海)】が修行した聖地といわれている。
その後400年のあいだに荒廃。
平安時代の終わり高野山より【阿観上人】が、この地に入られ後白河上皇とその妹の【八条女院】の篤い帰依と庇護を受け再興。
阿観上人は高野山より真如親王筆の弘法大師像を拝受し御影堂を建立し、弘法大師御影供の法要を始められると共に、金堂、多宝塔、楼門、食堂などの伽藍を再興。金剛寺は八条女院の祈願所となった。八条女院は皇族であり全国に荘園をもつ大富豪ですごい権力者だったそうだ。
その後も歴代女院の祈願所となり、さらに歴代女院女房が四代にわたって院主〔住職〕となる。これ以後、貴賤を問わず多くの女性が金剛寺に帰依し「女人高野」と呼ばれるようになった。
鎌倉時代の終わりに、金剛寺は、後醍醐天皇の倒幕に味方した楠木正成が戦勝祈願を依頼したり、学頭【禅恵】と後醍醐天皇の腹心【文観】との関係から南朝方と深く結びついた。
南朝の【後村上天皇】(父は後醍醐天皇)が正平9年(1354)から5年にわたり、子院(塔頭)の「摩尼院」と「食堂〔じきどう〕」を行宮*として執政。その間3年あまり、京都から連れ去られてきた北朝の三上皇(光厳・光明・崇光)及び直仁親王が子院「観蔵院」に幽閉されたことがあった。また、次の長慶天皇も文中2年(1378)から4年余り行宮とし、足利幕府軍と対峙した。
*天皇が行幸のとき旅先に設けた仮宮(仮の御殿)。
南北朝時代が終わると、南朝への負担がなくなり寺領から産出される米や木材、炭が商品作物として、寺の経済を潤し、子院が90以上を数えるほどに興隆。特に山内で醸造された「天野酒」は、室町時代から三大美酒の一つとして名を馳せ全国に流通。織田信長や豊臣秀吉などの天下人の庇護も受け、幕末まで307石の寺領を所有していた。
慶長11年(1606)には【豊臣秀頼】により、また元禄13年(1700)には、幕府の命により岸和田藩主【岡部美濃守長泰】が奉行となって、伽藍や仏像などの修理が行われている。
金剛寺の建物は約1000年の間建物が一度も焼けていないそうだ。まさに奇跡的。だから国宝が多いそう。
元禄時代の修理から300年の時を経て、平成21年(2009)から平成29年に、金堂・多宝塔・鐘楼の修理が行われた。同時に金堂に安置されているご本尊の大日如来坐像、脇侍の降三世明王坐像、動明王坐像の三尊の仏像も修理された。
現在、金堂の三尊をはじめ国宝5件、伽藍の建物はじめ重要文化財が29件指定されている。
■国宝「大日如来・不動明王・降三世明王」三尊像
密教の図像でも特殊な形式と考えられる尊勝曼荼羅を、大日如来(平安時代)、不動明王、降三世明王(鎌倉時代)の一組であらわしている。平成大修理の際胎内にあった墨書から、「不動明王坐像」は仏師・快慶の高弟、行快(ぎょうかい)の作で、天福2(1234)年に完成したこと が判明。また、3体がそろうまで約50年という歳月がかかっていたことも判明し、平成29(2017)年3月10日、国宝に指定された。
■国宝 「延喜式 巻十四」
平安時代につくられた法律のことを書いた書物のひとつ。
延喜式の写本のなかでは最古のもので、書かれている内容が非常に貴重なことから国宝に指定されている。
■国宝「日月四季山水図 」 6曲1双(室町時代)
作者不明、図案的構図と装飾的画趣は独創的で、桃山時代の作とする説もある。密教儀式の「灌頂」に使用された仏具の一つであったと伝えられている。「国宝展」で観た。
■重文「木造大日如来坐像 」 多宝塔安置(鎌倉時代)
多宝塔の本尊として造立された大日如来。
造立当初のものと思われる光背と三十七尊化仏〔けぶつ〕及び台座の蓮華部は創建当初の姿を今に伝えている。鎌倉時代の新様式の作風で、御影供が始まった承安2年(1172)ごろから、建久2年(1192)までに造立されたとされる。
■重文「楠木正成氏文書 」(南北朝時代)
楠木正成が金剛寺に送った自筆の書状など14通。後醍醐天皇が隠岐へ流された後の最も苦しい時期に、金剛寺へ鎌倉幕府軍が攻めてきた事をうわさに聞き、金剛寺の総力をもって防戦することを願い送った書状
■重文「尊勝曼荼羅図 」(鎌倉時代)
息災増益を祈念して修法をおこなう尊勝法の本尊として用いられる。
智証大師請来の図という尊勝曼荼羅は、平安末にはまだ一般に流布していない秘仏だった。金堂に安置される木造の三尊像とともに、この図が金剛寺に存することは、密教寺院として特徴ある性格を示している。
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