【7日間ブックカバーチャレンジ】
5冊目��
「『自分の木』の下で」大江健三郎(2005年) 小学館
�,遼粗�でふれた大江健三郎のもう一冊。
こちらは大江健三郎自身が子供のころの経験と障害を持つ息子・光を通して「人はなぜ学校へ行くのか」というテーマについて書いたエッセーだ。
息子の不登校が始まったのは小学校3年のときで、そこから行ったり行かなかったり不登校は断続的に高3まで続いた。
彼のことを相談したある恩師から「本人は行きたくてもいけないのだからお母さんが代わりに毎日学校へ行きなさい」と仰天のアドバイスを受けた。「えー?なんで私が?」(そもそも先生も父兄づきあいも苦手)と思いつつ私は学校へ頻繁に足を運んだ。担任以外の先生方、校長・教頭、息子の同級生とも顔なじみになり、私ら親子の存在を忘れられないようにすることが目的だった。子供にとって、みんなから忘れられること、いないことにされることが一番つらいからだ。この子の親は無視できないなと学校に認めさせないと学校は何もしてくれない。かといって私はモンスターペアレントでもクレーマーでもないので学校運営にも協力した。PTAも好きでやっていたわけではない。すべて子供のためだ。中学では皆がいやがる広報委員を引き受け、結局6年間広報紙を作ることとなったが、その広報紙が全国大会で毎年入賞し内外から評価を得たことはいいモチベーションになって行った。
大江健三郎のこの本も、私がPTA広報委員長をしていたとき読んだものだ(スクールカウンセラーへのインタヴューなどの記事に引用した)。
◆ある時間待ってみる
大江健三郎は「『自分の木』の下で」の最終章でこう書いている。
どうしても苦しく辛く、取り返しのつかないことをしそうになったとき、子どもが踏みとどまるためには、どうすればよいのでしょうか?
*彼は「取り返しがつかないこと=殺人と自殺である」といっている。
私はそれについて子どものころから考えてきたので、一つの答えをもっています。単純ですが、有効だとも経験によって知っています。
【ある時間待ってみる力】を持て、ということです。
(彼は「解析�機廚凌�式を自分で立てて解いていくその過程の思い出を引用して、こんな風に言っている。)
子どもにはもちろん、大人にとっても生きていくうえで本当に難しい問題にぶつかった時、一応それを括弧にいれて、「ある時間」おいておく。
・・・・
そうやって、生きてゆくという大きい数式を計算しつづけるのです。
初めから逃げるというのとは違います。
・・・・
そのうち、括弧のなかの問題が自然に解けてしまうことがあります。
苦しい時、具体的な問題や特定の人のことをBという記号におきかえて、Bがまだ解決できていないけれど、もう少し待ってみよう、と考えることにする。
それだけで、どんなに気持ちが軽くなるか。私は幾度も経験してきました。
いまもある記号に最悪の『いじめっ子』の顔が代入できるほどです。
そして・・・・・・・・
子どものあなたたちは、何とかしのいだ「ある時間」のあいだに、自分が成長し、たくましくなっていることに気づくはずです。
◆ひとはなぜ学校へ行くのか
ひとはなぜ学校へいくのか?というこどもたちの素朴な質問に大江健三郎はシンプルに
「自分が生きていくため社会とつながるための言葉を学びに行くためだ」と言っている。
そして、
「子どもにとって取り返しのつかないことはない、いつもなんとか取り返すことができる。それは人間の世界の原則だ。」 とも言っている。
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さて、コロナの時代教育の現場は大きく変わりつつある。私が息子の不登校にあえいでいた時代とは状況が違ってきた。
コロナのせいで全国の学校がすべて休校になったときまず私が最初に思ったのは、これは不登校の子どもにとっては逆に朗報ではないかということだった。自分だけじゃないみんな学校に行ってないのだから、周りから「なんで学校へ行かないんだ」と責められることもない。
そもそも学校でしか学べないことってあるのか?学校へ行く必要があるのか?という根本的な学校の存在意義が問われる時代になってきている。
一方いじめの方法も変化し(顔もしらない人からSNSで中傷されるなど)学校現場だけでなく家に帰ってからも四六時中いじめ地獄という実態もみえてきた。
ただそんな中で、やはり「取返しのつかないこと」(殺人と自殺)に至らないためには、
「【ある時間待ってみる力】を持て」という大江健三郎の助言は普遍的な意味を持つことばだと思っている。
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