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2026年03月13日23:29

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多武峰と六条篤とシュールレアリスム

しつこく「拡大するシュルレアリスム」ねた ��
ちょっとレアな情報を知ったので日記に書く。

NHKBSで、司馬遼太郎のエッセイ「街道をゆく」で紹介されている、奈良のお水取り(修二会)や多武峰(とおのみね)の著述を紹介する番組(再放送)があった。

東大寺のお水取りは去年機会があり見ることができた。
お水取りは正式には修二会(しゅにえ)といい二月堂本尊の十一面観音に対して(3/1〜3/14)2週間にわたって過ちを懺悔し除災招福を祈る法要。天平勝宝4年(752)に実忠和尚によってはじめられたといわれ「不退の行法」として今日まで1度も絶えることなく勤めあげられてきた。

奈良と言えば今は東大寺が最大だが、昔最強最大だったのは興福寺で、今のならまち、奈良公園、奈良ホテル周辺もほぼ興福寺の所領であったという。それが明治の廃仏毀釈で淡雪がとけるようにすたれてしまったらしい。
しかし奈良の都は変わらない。そこに住んでいる人たちは何代も何代も変わっているのに建物も神事仏事もまちの営みも1000年変わってない。それはメンテナンスができているからだ。人々の目に見えない努力により奈良のたたずまいが自然体のように維持されていることはまるで奇跡だ、と司馬は言っている。

10世紀の神仏習合や明治の廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたとき、奈良の公家僧侶たちはいったいどうしたのか?ということを司馬はこんな文章に書いている。

司馬遼太郎著 「街道をゆく:奈良近江散歩 」朝日文庫より

『多武峰は観(道教の寺院)か神社か、寺か。 ・・というあいまいさは千数百年つづく。
多武峰の祭神が、「談峰権現(だんぶごんげん)」という名になるのは、ようやく平安期になってからで、926年である。権現とは「仏が権(かり:仮)」に日本の神として現れるという意味で、十世紀の日本に成立した神仏習合のいわば結晶というべき思想だった。
このため多武峰は天台宗(叡山)の末として、仏僧によって護持された。
多武峰の僧のことをとくに「社僧」とよぶことが多い。ただしいまは存在しない。

明治の太政官政権の勇み足の最大のものは廃仏毀釈であった。慶応4年(1868) 旧暦3月17日、全国の社僧に対し、復飾(還俗にもどること)を命じた。
多武峰の社僧も明治2年還俗させられ、「神仏判然令」によって仏教色を除かれ談山神社という殺風景な名になった。

俗人になった僧たちは、半ば官命によって妻帯させられ、苗字を称し、その寺院を屋敷にして住んだ。そのうち代表的な「家」の一つだった六条氏などは三等郵便局を営んだ。
(その六条氏の孫、篤氏が画家でありながら三等郵便局長を守らなければならなかった。)


太政官政権がやったあざやかのことの1つは、あっというまに全国組織の郵便(逓信)制度をつくったことである。
旧幕時代の庄屋や在郷の名家の当主に准官吏の礼遇をあたえ、屋敷にいたまま業務をさせるというただそれだけのこと、一夜にして全国の通信網ができた。』

司馬が紹介している六条氏の末裔で芸術家でもあったという人物は六条篤という人で、彼が描いたのはシュールレアリスムだったという。

六条篤氏は詩人でもあったそうだ。シュルレアリスムがそんな風に日本古来の伝統的な家系に生まれた人の自己表現として表出したことが面白いと思った。

検索していて六条篤の記述が出てくる文章を見つけた。歌人の前川佐実雄氏が書いた文章だ。彼らは友人関係だったようだ。

◆美の脇役 多武峰十三重の塔
「談山神社の社殿や塔を下からまともに仰ぐ南側に六条篤君の家があった。
その家は今でもあるが寺院風の品を備えた古い家である。  しかし主人公であった六条君はいない。終戦の年の一月かに病死した。彼の家は代々多武峰の僧侶であったが、明治の廃仏毀釈のおり還俗した。一山の僧侶中でも有力な地位にあったと聞いている。  
この六条君は、その頃の言葉で言えばハイカラよりはモダーンであった。三十一文字ならぬ非定形の歌を作り、古賀春江やまたは川口軌外風の抽象画を描いて毎々独立美術展に出品していた。在る時、絵の方はともかく、歌は三十一文字がよいと言ったら、あの十三重の塔のようにですか、あれを朝夕見ているとひっくり返したくなるのですよ、と笑って答えた。昨秋久しぶりにこの神社に参詣したが、そんな二十年前の六条君を思い出して感慨があった。  
さてこの塔だが、年がら年中朝夕これを見ていたのでは六条君ならずとも私だってひっくり返したくなるかも知れない。それほど均整がとれている。美しすぎるぐらい美しいけれど、それが檜皮葺木造十三重塔という他に違例のない希少価値と友になおのこと美しく思われる。  
けれど再建また再建の運命を負って来た塔だ。時代の若いのは分かりきっている。それでも鎌足の子・定慧が唐の清涼山宝池院の塔を模したとあるからには様形式はそのまま承け継がれ、その結構は創建当時のものと大して違わないのではないか。私は世にも不思議な塔としてこれをこよなく珍重する。  
初層の屋根の特に広くて大きいのは、その上に十二層の屋根をのせるためだ。屋根の勾配ははなはだ緩く、各層の間隔は極めて狭いからまるでお祝いの大杯を積み重ねたようである。又あるいは見方によってはこの写真のように、どこやらの国の冠とも見られる流行夫人帽みたいでもある。けれどこのような奇抜な夫人帽はよほどのおシャレ、よごどの美人でないとよく似合わない
多武峰ははこの奇抜な塔を置いて、しかもそれが少しも奇抜な感じを与えず、当り前とも思われるほどに調和して、末世の詩人たちをして説きにひっくり返したくさえ思わせるのだ。    (歌人・前川佐実雄)


多武峰は私も小学校の遠足か林間合宿で行った記憶がある。ただの山深い田舎で歴史に埋もれた境内という感じだったが、確かにあの檜皮葺木造十三重塔はすごいインパクトがある。
小学校以来行っていないので近々再訪してみたいと思った。
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