さる3月3日、妹たちと実家に行き、母を囲んでひな祭りをした。3人の娘を育て上げた老母は今年89才になった。 私たち三姉妹に女の子はいないので長らくひなまつりを祝うこともなかったが、母の寝室にはいまだに捨てられないお雛様が飾ってあるので久々に懐かしいおひなさまに会って写真を撮ってきた。
昭和30年代は、住宅事情を鑑みて、団地雛というのが流行ったらしい。ガラスケースにコンパクトにおさめられたお雛様をみていると、子どものころのことをいろいろ思い出す。
3月3日の桃の節句は、母の実家から贈られたこの小さなお雛様を出してちらし寿司と潮汁でお祝いする。大きなひな壇は置く場所もないし不経済だからとわざわざ小さなものを選んでもらったそうだ。
ひな祭りが終わるとすぐにしまわないと「いきおくれる」からと毎年母は大急ぎでお雛さまを片付けていた。まったくご苦労なことだ。おかげ様で三人官女はみななんとか嫁ぐことができた。
母の寝室に今も飾られている団地雛。
ガラスケースの上に置かれたお菓子の空箱で作った引き出しボックスが貧乏くさい(笑)
左にちらっと写ってるのは、母が嫁入りの時持って来たのと私が生まれた時に父方から贈られたという市松人形2体(怖

)
祖母が私と妹に買ってくれたいわゆるフランス人形(女の子の憧れ

)
後年ドレスは母が作って着せ替えた
我が家は貧しく子どもの習い事に費やすお金もないので書道もそろばんも母が教えてくれた。鉄棒の逆上がりや二重とび(縄跳び)の特訓までしてくれた(笑)。
年中行事や一般常識的なこともほとんど母から普段の生活を通して学んだ。
絵を描くのは得意でこれは教わらなくともチラシの裏に描きたいだけ描いていた。あまりに上手に描く絵を捨ててしまうのはもったいないから、と母は私に絵日記を書かせることにした。そんなわけで私は幼稚園のころから日記を書き始めた。
厚紙で着せ替え人形を作って、着せる服もすべて自分でデザインして色を塗って遊んだりもした。おもちゃは買ってもらえないからね。そう考えれば料理も遊びのひとつでよく母と一緒にハンバーグや餃子やコロッケを作ったりした。
服はほとんど母の手作りだった。 私は貧乏なくせに太っていて既製服がなかなか合わない(笑)。 それに既製服は高いので母が洋裁ができたのは大いに助かったのである。父の背広を再利用したジャケットやジャンバースカートなど、いろいろ作ってくれた。
着なくなった服を捨てるとき、はぎれでもボタンでもファスナーでも、また使えるかもしれないと母はすべてほどいて取っておくので、「なんて貧乏くさい!」と思ったものだが、今私がものを捨てられないのは母の影響である。
おやつの買い食いも禁止だった。買い食いがいけないというよりお菓子を買うお金をくれることがなかった。
買い物について行っても三度の食事の材料以外はいっさい何も買ってくれない。いつも見るだけである。文句をいうと、だったらついてこなくていいと言われる。
でもおやつは全くなかったわけではなく、手作りでホットケーキ、ドーナツ、プリン、わらびもち、パンの耳のフライとか、母なりに工夫して作ってくれていたのだと思う。
飲み物はたまにバナナジュースが一番のごちそう。
フルーツ缶詰やカルピス詰め合わせをたまにお中元でもらうと歓喜した。
私たちがすぐにでも食べようとすると、「ちょっと待って。お父さんにきいてからよ。」と言われる。
ちゃんと誰からもらったものか父に報告して了解を得てからでないと手をつけてはならない。
我が家にはいろんなルールがあった。
母はふたこと目には「私たちがたまにこんなおいしいものを食べられるのもお父さんのおかげ」「私たちがこうして普通の暮らしができるのはお父さんが一生懸命働いてくれているからだ」と言った。
高度経済成長期・・ほとんど家にいないし家族との接点も皆無だった父の絶対的な存在感は、こうして母の口を通して植えつけられた。
母から読み書きそろばんを家庭教師なみに個人指導してもらい、オーダーメイドの服を着て、無添加の手作りおやつを食べていた子ども時代。
ちゃぶ台で少女マンガを描き、クラッシックやシャンソンのLPを聞き、読みたいと思えば文学書籍はいつもそばにあった。
振り返ればとてもオーガニックな暮らし・・
貧乏ではあったが、まるで深窓の令嬢のような暮らしをしていたのだ(笑)。
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