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2026年02月13日20:01

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「八十日間世界一周」は可能か

平山亜佐子の『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』は、わが国ジャーナリズム黎明期に登場した、素性を隠して上流階級の家庭やダンスホールに働き手として潜入し、実態をルポした女性記者の列伝だ。
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この本で、そうした女性潜入記者の先駆けとして紹介されていたのが、アメリカのネリー・ブライだった。
彼女はニューヨークのブラックウェル島精神病院に病気を装って十日間潜入し、女性患者への虐待の実態を暴くといった、ガッツ溢れる取材で知られていたらしい。
しかし彼女を最も有名にしたのは、ジュール・ヴェルヌが『八十日間世界一周』で描いた旅は本当に可能なのかを、身をもって体験して発表した記事だった。

実はその旅は、もう一人の女性記者との競争という形で行われていた。
そのもう一人というのが、先般朝ドラ『ばけばけ』でシャーロット・ケイト・フォックスが演じたイライザ、ヘブン先生の長年の想い人で、彼に日本行きを促した記者仲間だったということは、まだそんなに広くは知られていない。
(ドラマでは、この点には触れていなかったと思う。)
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マシュー・グッドマン『ヴェルヌの「八十日間世界一周」に挑む 4万5千キロを競ったふたりの女性記者』(柏書房)
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タイトルそのままの本だ。
1873年、フランスのジュール・ヴェルヌは、トマス・クック社主催の世界一周ツアーに触発されて『八十日間世界一周』と題した冒険小説を書き、これが世界的なヒットを記録した。
1889年、かのジョゼフ・ピュリッツァーが経営する『ニューヨーク・ワールド』紙の女性記者ネリー・ブライが、小説の向こうを張って、いやもっと短時間、75日あれば世界一周は可能なはずなので、実際に旅をして記事を書きたいと一年前から主張していた。
「やってみなはれ」とピュリッツァーが言ったかどうか知らないが、発行部数の伸び悩みを打破するため、彼はGoサインを出した。
ニューヨークから大西洋に向けて船に乗って東回りでイギリスへ、そのままヨーロッパを縦断してイタリアのブリンディジへ、そこからまた蒸気船に乗ってスエズ運河を超え、セイロンを廻ってシンガポール、香港、そして横浜から太平洋を横断してサンフランシスコ、そこからはアメリカ大陸横断鉄道に乗ってニューヨークに戻る、という行程だ。

この計画が紙上で発表されると、黙ってはいられないのがライバル紙。
『コスモポリタン』誌を買収したばかりのジョン・ブリスベン・ウォーカーは、ネリー・ブライの世界一周旅行を報じる最初の記事を読むとすぐ、急遽人材を見繕って刺客を放っ・・・いや、対抗して、逆の西回りで別の女性記者を世界一周に挑ませたのだった。
「今夜ニューヨークを発ってサンフランシスコへ向かい、そのまま世界を一周してくれないか?」
そう言われたのは、エリザベス・ビズランド。
体当たり取材を得意としたネリーと違い、南部の没落名家出身で教養高いエリザベスは、速報性のある日刊紙より、本や文学を真剣に扱う雑誌に寄稿する方を得意としていたが、『コスモポリタン』の常勤スタッフとして充分な報酬を約束された彼女は、考えた末にこの仕事を受けることにする。
急いで旅に適したドレスを発注し、翌日のお茶に招いていた友人らに丁寧なお詫びの手紙を書き送ると、トランク一つに荷物をまとめ、即日仕上がったドレスを身に着け、西海岸へ向かう鉄道に飛び乗ったのだ。
ネリー・ブライの出発から、三日遅れでのことだった。

この競争に熱狂したのが、ニューヨーク市民、いやアメリカ全土の人たちだった。
『ニューヨーク・ワールド』は、ネリー・ブライが何日何時間何分何秒で世界一周を果たせるか、懸賞を行った。
紙面にクーポンを載せ、そこにネリーの到着予想時刻を書いて編集部に送れば、正解者もしくは一番近い時間を当てた人に世界一周旅行をプレゼントします、と発表したのだ。
これで集まった回答が、最終的には驚くなかれ、93万通近くにのぼったという。
事務局のてんやわんやぶりが目に浮かぶではないか。
ネリー・ブライは一躍時の人となり、彼女の旅装のイラストはアイコンとなって、さまざまなところを飾った。
新聞には日々彼女の旅程や電報で送られてきた記事が載り、今ネリーがどこで何をしているかが、アメリカ市民の話題にならない日はなかった。

一方、西廻りのエリザベス・ビズランドは、まずいきなり東洋の島国、日本にやってきた。
横浜に上陸した彼女は、まるでおとぎ話の国のような「日本」に遭遇する。
東京は芝のある寺では、
――天井は見事な彫り物で飾られ、漆と金で描かれたおびただしい数の竜、鳥、蓮の花、菊の花が複雑に絡み合っていた。モザイク模様の床面からは、巨大な石の蓮の花びらが浮きあがっている。エリザベスにはその部屋が、とてつもなく大きくかつ完璧な宝石箱のように思えた。金箔の上には貴石をちりばめ、贅沢に色付けされた漆の部分は高価な宝石のように固く磨かれている。
「アメリカは蒸気トラクターと大きな新聞社のある平凡な国。でもここは、磁器と詩歌の国、どんなにありふれた場所にも美しいものがある国だわ」
「我アルカディアに在りき」エリザベスは、花の散る石段を降りながら、案内の僧侶にいった。「わたしも妖精の国にきたんですね」
(第8章 我アルカディアに在りき)

・・・まるでその9年前、1878年の明治日本を旅したイザベラ・バードの『日本奥地紀行』そのままではないか!
バードは山形の置賜地方を、まさに「東洋のアルカディア」と評している。
そしてこの時のエリザベスの経験が、10年後のラフカディオ・ハーンの来日につながったというわけだ。

元気いっぱいのアメリカン・ガール、野心的でサービス精神・批判精神とも旺盛で、毀誉褒貶の激しいネリー・ブライと、ミシシッピとルイジアナの六つの農園に一時は四百人近い奴隷を抱えていた南部の名家出身、南北戦争のあおりですでに裕福ではなかったが、上流階級の教養を身につけて冷静に周囲を観察するエリザベス・ビズランドとは、旅のコースと同様、まったく対照的な二人だった。
二人は世界一周の旅程で、当時の大英帝国が世界に及ぼす力をまざまざと感じ取るわけだが、その経験はネリーを徹底した英国嫌いにし、一方エリザベスは強い敬意を抱くようになる。

これまでにも意欲的な取材記事を書いてきたネリー・ブライの旅の前半のレポートは、観察力に富んだ鋭い指摘が多かったのに対し、後半になるにつれ、先を急ぐことばかりに躍起になり、「見るべきものは何もない」といった風に、周囲にほとんど興味を示さなくなってゆく。
エリザベスとは逆に、先にヨーロッパを見て、後半がよりエキゾチックなアジアの旅になったにもかかわらず、である。
一方エリザベスは、ヨーロッパに着いてから、相次ぐ不運に見舞われることになる。
予定していた汽車には乗れず、食事も満足にとることが叶わず、大西洋を渡る際は速度の遅い蒸気船しかつかまえられなかった。

レースの結果は、調べればすぐわかることなのでここには書かない。
興味深いのは、こんなにも正反対の二人が、旅の後の生涯は驚くほど似た軌跡を描いたということだ。
旅を終えて、急激に時代に忘れ去られた両名は、やがて裕福な配偶者を得てしばらくヨーロッパで暮らし、晩年は慈善事業に没頭した。
あのレースがアメリカのジャーナリズムにどんな影響を与えたのか、あるいは時代の何かを象徴しているのか、そういったことはわからない。
英国が見本を示した帝国主義。
ほどなくアメリカが追従して、やがて世界を圧倒するようになるまで、さほど時間はかからなかった。
時代の歯車が勢いを増して回転してゆくそのさまを、彼女たちはどのくらい意識していただろうか。
ネリー・ブライの名前(だけ)を冠した公園が今もブルックリンにあり、二人の墓は、ともにブロンクスのウッドローンという広大な墓地のそれぞれ別の場所にあるという。

さぁ、こうしちゃいられない。
ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』を、私も読んでみなくっちゃ。



『日本奥地紀行』読書会
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