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地球伝承 〜 古代から未来へ 〜コミュの阿修羅は弥勒・救世主である

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 個人ブログから、追記の部分の長文を転載します。
http://seirios2772.blog115.fc2.com/blog-entry-243.html

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“もと”悪鬼としての闘争を好む魔神。天部の神のリーダー格である帝釈天を敵対視し、永久に闘い続ける東洋の堕天使。若さゆえの血気盛んさ。闘争への迷妄と執着。それらを経て仏法に出会い、帰依して、守護神としての天部の神に復帰するいきさつ。阿修羅神にまつわるこれらの話は、マニアならずとも日本人であればどこかしらで見聞きし、記憶のはしに残っているだろう。
 しかし、詳しい話を知っている人がどれだけいるのだろうか。比較的クールに、しかも面白おかしく語ってくれているページがあったので、紹介してみよう。
http://butuzou.net/02info-b/asyura.html 仏像netTop-Page>天部の話>阿修羅

 原話を見る限り、阿修羅は当初、被害者であり、被害者の救済者でもあった。それ故のレジスタンスだったのに、後世のクソ坊主の説教では、なぜ争い好きなだけの乱暴者にされてしまったんだろうか。ここに「勝てば官軍」側の、なし崩し的プロパガンダがある。 (これは日本の『記紀』神話の、高天原におけるスサノオの贖罪と、実は完全にリンクしている。『記紀』神話の場合は、さらに実相が隠蔽されていて、物語の中に真実の影も形もない。……いや、影の手がかりくらいはあったかな。これについては、またよっぽど気が向いて、時期が来たら書きます)

 イマジネーション豊かな反権力志向の作家なら、絶対ここに跳び付くだろう。古くは(萩尾望都の漫画でも有名になった)光瀬龍『百億の昼と千億の夜』 そこでは、絶望の果ての未来救世主のような扱いだった。(発想としては、キアヌ・リーブス主演の映画『マトリックス』や、高橋克彦『龍の柩』、アニメ「ルパン三世」の劇場版第一作『ルパンVS複製人間』などと通低する原型と言えるかもしれない)
 アニメにもなった藤川桂介『宇宙の皇子』などでも、阿修羅は天界の悲劇の王でこそあれ、決して悪くは描かれていなかったと思う。(最後はどうなったのか、私は両方とも原作を読んでないので、確かなことは言えないが)

 とは言え、いつまでも「正義」の争いに拘泥しているのは良くない。清濁併せ呑む度量と、何よりも小さなものへの慈悲心ある帝釈天のほうが上だったのだ、というような、既得権社会に飼い馴らされた日本人の、いかにも好みそうな「お説ごもっとも」も、相変わらず人気が高いようだ。
http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/advice/asyura.htm 阿修羅の正義
http://www.creage.ne.jp/app/BookDetail?isbn=4333021375 わたしの中の阿修羅:クリエイジ ビジネスネット書店
 ひろさちや氏はさすがに学者だから、上に紹介したような書評よりは、よほど多角的な歴史考証を加えながら阿修羅を論じているらしいのだが、次のような文句だけを抜き出して集約されると、どうにも鼻白む。

『「正義」というものは複数形である。これが大事な前提だ。われわれはそのことをしっかり確認しておこう。つまり、「正義」を単数形にしてはいけないのである。』と、この本には目の覚めるような見識がちりばめられています。(引用終り)

 こんなことは9.11NYテロ以降の米ブッシュ政権批判として、腐るほど語られてきたことだ。あのテロ直後に、「正義」の報復の名の下に戦争経済を加速させようと、プロパガンダに躍起となっていたアメリカ政府に向かって、不退転の決意で発信してくれたのなら立派なものだが、今となって当たり障りのない寓話的な(と皆が思っている)世界で、どうこう論じるのは片腹痛い。
 「正義」だの「悪」だの、結局テレビの中の出来事でしかない。自分のところにさえとばっちりがこなければ、どこが「正義」だろうが「悪」だろうが、実のところたいした関心事ではない。その程度のぬるま湯の相対化に逃避している国民性の、眠くてあくびが出そうな答弁だ。

 「正義を単数形にしてはいけない」、それ自体はひとつの視点としてよかろう。しかし、それを「正義の神と呼ばれていた」という理由だけで、天界レジスタンスの阿修羅の側にだけ向けるのだとしたら、それはお門違いというものではないか。
 「正義」が阿修羅の側の単数でないなら、「慈悲(同情心、あわれみの心)」だって帝釈天の側の単数ではありえない。阿修羅には阿修羅の慈悲心がある。それを隠蔽して一方的に「慈悲」の票田を盗もうとするのが、「力」の神たるインドラ(帝釈天)の政治工作であり、プロパガンダの臭いがぷんぷんなのだ。

 以下、阿修羅と帝釈天の仏教説話を引用してみよう。
http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/advice/asyura.htm 阿修羅の正義
 帝釈天のエピソードの中にこんな話もあります。珍しく負け戦で、逃げていく帝釈天の軍勢の行く手に、道の上を何万匹ものアリが歩いていました。それを見て、そのアリを助けるために、帝釈天は軍勢を再び元の逃げてきた方に引き返させているのです。【アリではなくガル−ダ(霊鳥)が巣を守っていたという説もあります】逃げている軍隊が又とって返すなど普通はありえない行為です。それができるのは、帝釈天は力の神であって、弱いものに対する同情心、あわれみの心があるからだというのです。おそらく正義の神である阿修羅には、それができないでしょう。正義のためには、少しぐらいの犠牲はやむを得ない、そう考えるのが正義の特色です。ですから、正義にこだわり、自らの正義ばかりを主張しつづけて相手の立場を考えない、そんな正義は魔類の正義となります。仏教はそんな思いやりのない「正義」にこだわるなと教えているのです。

 帝釈天は「力」の神であるから、力関係によって判断し、力関係によって諸事を運ぼうとする。(大本の教理で言えば「力主体従」) 珍しく負け戦で敗走したのも、劣勢であるという力関係の戦況判断に従ったまでだ。(阿修羅だったら、もっと致命傷になるまで闘ってしまうかもしれない) したがって、蟻の大群を前に引き返したのも、弱いものへの慈悲心などではなく、そのシチュエーションにおいては蟻の大群はたいへんな「力」を持っていて、阿修羅軍の「力」よりもよほど恐ろしかったからだ。そう考えたほうが、はるかに説得力がある。
 一匹の蟻や、数匹の蟻ではなく、あくまでも蟻の大群としているところに注目! 無数の草の根の民の後々の世までの風評、というような「力」を象徴していたのかもしれない。
 よく言えば、帝釈天は深謀遠慮の政治的視点を持っている、とも言える。裏を返せば、力の論理、数の論理で、自分の政権にとって何の得にもならないマイノリティ(少数派)は、退屈しのぎにひとひねりに潰すことのできる輩なのである。「力」の論理とは、そういうものだ。

 こうした状況の読みができないで、阿修羅の側だけに「思いやりのない正義いけませんよ」と説教を垂れるのであれば、テロリストでもないのに巻き添えの空爆で虐殺、蹂躙されたイスラムの庶民に向かって、「正義はいけませんよ」と論評しているのと同じ構図だろう。
 テレビでしか戦争を知らない裕福な国の、呑気な父さんの戯れ言のようなものだ。そして、米ブッシュ政権のプロパガンダにころりと丸めこまれて、米軍の「慈悲」を誉め讃えるのである。


 そもそもこの阿修羅の仏教説話は、どこから来ているのだろう。どの文章でも「仏教では」「仏典によると」と前置きするだけで、いったいどの教典のどこに書かれているのか明瞭ではない。※大乗仏典であることは何となくほのめかされるのだが、この情報社会にあってちょっとやそっとでは調べがつかないほど、都市伝説的に不可思議な世界だ。
(※ちなみに「大乗」と「小乗」という教えの段階の区分けは、後世の仏教による創作であり、歴史上の仏陀自身は大乗も小乗も説いてはいない。大乗仏典の説話は出発点からして、すべからく後世のフィクションであり、伝承の過程で変質したものでさえない。あるいは歴史上の仏説とは関係のない民話などを元に編纂されたストーリーなのだろう。
 これは逆説でも異論でも何でもなく、学問の世界ではとっくの昔に立証されている大常識なのだが、日本の仏教界(信仰の世界)は近現代に到るまで、ことごとく大乗仏教の傘下にあったので、今さら引っ込みがつかないのか、歴史認識としてのフィクションがまかり通っている場面によく遭遇する。信仰の世界の寓話的な「教え」としてはそれでいいのだが、歴史認識との使い分けができてないんだよね)

 ここで根本的な異論を唱えるならば、インドにおいては古代に遡るほど、アシュラとインドラは共に善神であったらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BF%AE%E7%BE%85 阿修羅 - Wikipedia
 アスラは今でこそ悪魔や魔神であるという位置づけだが、より古いヴェーダ時代においては、インドラらと対立する悪魔であるとされるよりは最高神的な位置づけであることのほうが多かったことに注意する必要がある。(引用終り)

 私が手にした原始仏典『スッタニパータ』でも、阿修羅が悪神であるという記述は見当たらず、むしろ帝釈天と同様かつ同等に、慈悲深く、情と理の神であった片鱗がうかがえる。
 品行方正だった古代のバラモン(祭祀を司る貴族階級)が堕落していく過程と原因を、仏陀が語って聴かせる場面だ。

 そこでかれらは財を得たのであるが、さらにそれを蓄積することを願った。かれらは欲に溺れて、さらに欲念が増長した。そこでかれらはヴェーダの神呪を編纂して、再び甘蔗王に近づいた。
 (略)そこで車兵の主である王は、バラモンたちに勧められて、幾百千の牛を犠牲のために屠らせた。
 (略)刃が牛に落ちるや、そのとき神々と祖霊と帝釈天と阿修羅と羅刹とは、「不法なことだ!」と叫んだ。
 昔は、欲と飢えと老いという三つの病があっただけであった。ところが、諸々の家畜を祀りのために殺したので、九十八種の病が起こった。
                         中村元訳 『スッタニパータ』306〜311より

 
 日本仏教界の認識では、遡っても「阿修羅はもとはインドの土着の神だった」とされるくらいで、それよりさらに以前の、インド以外でのルーツに関しては、ほとんど触れられることがない。
 しかし、阿修羅と帝釈天の終りなき闘争は、次のような民族や帝国ぐるみの闘争の歴史の投影であるという、説得力ある説もある。こういうリアルな歴史観に立脚したもののほうが、私にははるかにロマンとファンタジーを掻き立てられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BF%AE%E7%BE%85 阿修羅 - Wikipedia

シュメール、アッシリアの古代史と仏教の阿修羅にまつわる伝承との類似性も高く、信憑性のある事実として指摘される。
仏教伝承では、阿修羅は須弥山の北に住み、帝釈天と戦い続けた。阿修羅は帝釈天に斃されて滅ぶが、何度でも蘇り永遠に帝釈天と戦い続ける、との記述がある。これらの伝承を古代史になぞらえると、以下のようになる。

アッシュルを最高神と崇めたアッシリア帝国は、シュメール(現在のイラク周辺)の北部に一大帝国を築き、シュメール・アッカドの後に勃興したバビロニアに侵略戦争を繰り返した。
バビロニア人はメディア人と手を結びアッシリアを滅ぼしたが、国を再興したアッシリア人達にバビロニアは滅ぼされた。後にてバビロニアの地にカルデアが勃興して、再びアッシリアを滅ぼした。その後、アフラ・マズダーを崇めるペルシアが勃興して、カルデアを占領下におさめた。その後、古代マケドニアがペルシアを滅ぼした。
また、シュメールと須弥山(サンスクリットでは「スメール」と発音する)の類似性。シュメールの最高神マルドゥークと帝釈天インドラの類似性を指摘する説もあり、阿修羅と帝釈天の構図はアッシュルとマルドゥークの構図と全く同じであり、これらの古代史を仏教の伝承として取り込んだ可能性が高いと主張する神学者もいる。(引用終り)

 しかし、こうなるとどっちもどっちだ。宿敵だったというだけで、どちらが正義とも悪とも、歴史の彼方のことはわかりづらい。


 上記「シュメールVSアッシリア」説とは別に、「ペルシアVSインド」説もある。以前にも書いたことがあるが、ペルシアのゾロアスター教の最高神アフラ・マヅダが、インドに取り込まれてアシュラとなった。このゾロアスター教が後のキリスト教にも影響を及ぼす「善悪二元論」のルーツのような宗教だったので、「善:正義」の神の属性がインドのアシュラ神にも託されていたのかもしれない。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/5151/link_3088.html 神々の戦い 23 消される神々、ゾロアスター教
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-7.html アッシリアからアケメネス朝ペルシア
http://tonoguchi.web.infoseek.co.jp/iran/zoroastr.htm ゾロアスター教 
 では、ゾロアスター教の「悪」は何だったのかというと、アーリマンと呼ばれる悪神で、これがどうやらインドにおけるインドラ:帝釈天だったらしい。ここでは(阿修羅の原型である)最高神アフラ・マヅダに何度叩きのめされても、性懲りもなく復活して反抗してくる野蛮で悪辣な魔神とされている。まさしくヒンズー→大乗仏教とは善悪を反転させた裏返し神話であり、ところ変われば正義も力関係も変わる典型だろう。

 宇宙最高神であり光明神であるところから、このアフラ・マヅダを金剛大乗仏教(密教)の大日如来や毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)のルーツとする見かたすらある。つまり、教祖:釈尊さえ超越する大宇宙の如来が阿修羅の原型でもあるという、とんでもない話になる。
 しかし、国として先に滅び去ったのはペルシアだったから、インド神話の言い分のほうがより広く後世に伝播したということだろう。そして魔神:阿修羅におとしめられた逆襲として、最終仏教の密教において、大日如来として変身復活した。そう考えると楽しい。
 
 ゾロアスター教は、唯一神への絶対服従を誓わせる後のキリスト教などと違って、人間の自由意志を尊ぶ宗教だった。これはカトリックやプロテスタント以前の、原始キリスト教やユダヤ教の中の、ヒューマンでポジティブな人間観に受け継がれている気がして、私も好きなのだが、やはり善悪・物心の二元論に縛られすぎるきらいがあり、終りのない闘争に明け暮れる思想的DNAを世界に撒き散らしてきた。世の初めから終りまで、選択肢が「善」と「悪」の二つだけしかないという先天決定論は、いまだに西洋社会が抜け出せないでどうどう巡りしているハタ迷惑な迷宮だ。
 また、物質・肉体(あるいは死)を「悪」や「穢れ」として蔑視する傾向は、日本の征服王朝以降の神道の中にも入り込んでいる。これが葬儀や死者供養の忌避へとつながり、庶民の祖霊祭祀や死者供養という「汚れ役」は、後の輸入宗教である仏教が引き受けることとなった。一方、国家のために殉死した者だけが、新興の国家神道によって「墓」ではなく「神」として祀られる(=靖国神社)という、複雑に捻れた日本の宗教事情を醸造することとなる。(知識人を含め90%以上の現代日本人が、この複雑に捻れた宗教事情を自己分析できず、単に「日本人の寛容さ」だと言って自慰している)

 ゾロアスター教は自身はほとんど滅び去ったが、後の宗教界への影響力が功罪両面とも大きかった。その功罪の「罪」の面を精算する役回りを、大乗仏教の阿修羅が負わされてきた、と言えなくもない。
 しかし、興福寺の阿修羅像を見ていると、ルーツのゾロアスター教をも超える“何か”がありそうな気がしてくる。違う!そんなことではない!もっともっと魂の奥底を、洗いざらし見つめてみよ! そう語りかけてくるのだ。

 多くの識者は、阿修羅像の少年(少女?)のような憂いや戸惑いの表情を、純だが頑なだった人生の若年時代に重ね合わせて理解しようとする。仏教的な道徳観の鋳型にはめ込んで、迷妄の世界から抜け出る時の悔悟の表情と言うわけだ。しかし、そういう人達は、あの阿修羅像の内に秘められたたぎるような決意と意思の力を感じとってはいないのだろうか。
 阿修羅の表情は、ほろ苦い過去のノスタルジーなどではない。怒涛のような終末世界の不安と、それを乗り越えて未来世界へと橋渡しする不退転の決意だ。
 なぜ阿修羅が若年の姿をしているのかといえば、大きな大きな人類全体の転換期にあっては、たかが個人や家系数代の「大人の」経験値など用を成さないからだ。それまでのやり方では行き詰まっているからこそ、この破滅的状況があるのではないか。進化の袋小路から脱け出て、次なる進化へと向かう過渡期にあっては、生物は一旦、幼児退行するかに見えることがあるという。正負も功罪も、一度オールクリアして、先入観のない無垢なる若者の感性にリセットする必用があるのだ。
 しかし、無垢なる魂は傷つきやすく、そこから未知の一歩を踏み出すには多大な勇気がいる。しかし、踏み出さなければ種全体の深化向上もなく、滅びの道しかない。その一歩には、全知全能の神といえども手助けすることはできない。なぜなら、それぞれの自由意志によって霊性の深化向上を果たしていくことこそが、神が世界を創造した目的だからだ。
 そこに気づいてくれない歯がゆさと愛おしさ。まがい物の天神に惑わされて迷路を彷徨う人類全体の罪を、鏡のように写し出し、身代わりとして支え、苦悩する姿。苦悩してもなおみずみずしい姿が、隠された真の神の使者である興福寺の阿修羅像なのである。

 日本国乗っ取り犯である藤原不比等の直子(光明皇后)からこの仏像の企画が出されたのも、因果な巡り合わせだが、汚濁の泥沼から清浄なる蓮の花が咲く、という仏教の喩えもある。アマテラスを頂点とする朝廷の捏造神道に反骨し、原初の女神、瀬織津姫を求めて流浪の人生を貫いた円空も、実は藤原氏の出だったという。

 最古の世界宗教と言われるゾロアスター教よりも、実はさらに阿修羅の原型に迫る神がいる。それがミトラ教のミトラ神である。
 これは史料が少なく、学術的にも定説が乏しく、謎めいている世界なのだが(何よりもローマ・カトリックがその世界観の多くをパクって来たものであるが故、史料が抹殺・隠蔽された疑いもある)、「救世主」「最後の審判」といった一神教の専売特許のような世界観は、ミトラ教から発して、ゾロアスター教やユダヤ・キリスト教に伝播したものである。(ミトラ教をゾロアスター教の分派と見るむきもあるが、原型部分の再分離と見たほうがいいだろう)
http://www.ffortune.net/symbol/sinwa/zoro/afra2.htm アフラ・マヅダとミトラ・キリスト教
http://hexagon.inri.client.jp/floorA7F/_floorA7F_mitra.html ミトラ教と神智学

 ミトラ教に関して独自の精力的な研究をしている東條真人氏によると、「七曜」や「七大天使」もミトラ教が原型であるという。「七曜」を「七星」の類似と解釈すると、東洋の道教や陰陽道の北斗七星信仰とも通じている可能性がある。
 ゾロアスター教においてはアフラ・マヅダは宵の明星=金星になぞらえることが多かったが、ミトラ教においてはミトラ神は「無敵の太陽神」とされた時代がある。このへんは古神道の男性太陽神:饒速日を連想させて楽しい。
 実際、東條真人氏の説くミトラ教の根本理念は、大本教や日月神示の「万教同根」「万類愛」や、「一厘の秘密」による逆転再生の神劇を彷彿させるものがあり、胸がときめくのだ。

 以下、東條氏のHPから、ここでの最重要テーマにあたる部分を転載してみよう。
http://homepage2.nifty.com/Mithra/HP_Mithraic_Myths.html ミトラ教.最初に読むミトラ神話
 
 この二つのエピソードに共通する主題は、「ケンカの後かえって仲良くなるという不思議な現象」である。強力な敵として現れた者と戦っているうちに、しだいに仲良くなり、最後には一致協力して、第三の敵と戦うというのも、この主題の変形である。こんにちの少年アニメ・コミックのほとんどがこの主題をあつかっていることからもわかるように、古代から現代まで、これは人類がけっして忘れてはならない主題なのである。

 古代も現代も、「戦い」「バトル」というものに関して、二つの考え方がある。一つは、ミトラ神話に代表される考え方である。「バトルは、友だちづくりの機会だ」という考え方である。もう一つは、マズダー教(ゾロアスター教)に代表される考え方である。「バトルは、敵(気に入らないやつ)を完全に抹殺する機会だ」という考え方である。ミトラ教は、マズダー教の考え方を全面的に否定する。なぜなら、「友道」は人を信じることから始まるからである。

〔救世神ミトラ出現に関する二つの解釈〕 救世神ミトラの出現は、それ以前の世界、すなわちゼウスの統治に根元的欠陥があり、それを除去する必要があったことを意味している(小川『ミトラス教研究』p254)。ゼウス(アフラ=マズダー)の致命的な失敗とは、約束を破ったことである(約束はミトラのキーワード)。しかし、もう一つの解釈がある。それは、ゾロアスター教の絶対二元論が、アフラ=マズダーを善神として純化する一方で、アーリマンを絶対悪ときめつけたことこそ致命的な欠陥であるとする解釈である。この解釈によれば、ミトラは、絶対二元論を討ち破り、アーリマンを復権させるために現れたことになる。後に大マニがこちらの解釈を大々的に展開したため、現在のミール派イスラームのほとんどは、こちらの解釈を採用している。(引用終り)

 興福寺の阿修羅は、ゾロアスターのマヅダ神ではなく、あきらかにミトラ教のミトラ神のほうだろう。
 このミトラ神が、キリスト教に取り込まれて「メシア(救世主)」となり、一方で大乗仏教と習合して「マイトレーヤ・弥勒(未来仏)」となった。これも一般にはあまり知られていないが、事実である。
 そして、世界を復活させる救世神ミトラは、少年の姿をしているのである。無知で未熟な故の少年の姿ではなく、既成概念や既得権に囚われず、未知なる友愛のために不屈の挑戦を繰り返す、無限の可能性を現しているのだ。
  
 阿修羅は弥勒・救世主だったのである。そして、阿修羅はあなたや私の中にもいて、愛故に泣き、傷ついても立ち上がり、未来へと立ち向かっていくのだ。


コメント(10)

 ミトラ、アシュラ同様、スサノヲが先行の土着の神であったのかもしれません。
 特にスサノヲの若い時代の(アマテラスからみての)所業の悪さは、帰依する前のアシュラに似ており、「勝てば官軍」サイドからスサノヲもアシュラもえがかれていることを感じました。
 両者(神)ともに人格が分離してしまったのではないか、というほどの変容ぶりはこれが同一人物かとおもうほどです。
 考えてみるとキリスト教ももともとミトラの善悪二神論を内包している※という説があることを考えるとこの両者(神)自身が、善悪二神論を体現しているのではないか、という気もします。


「中国の中庸と西欧の神と悪魔」
中国思想の特質は、これを西洋思想と比較した場合に一層明瞭となる。ここにいう西洋思想とはキリスト教の意味である。このキリスト教は通常一神教といわれながら、実はその本質において二元論なのである。すなわち神と悪魔とが対立して存在し、両者を一元的に説明する論理がない。おそらくこれは西アジアのミトラ教などによって持ち込まれたに二神教の影響であろう。人間は神と悪魔との対立の中間に位置しており、神に近づくほど善人となり、悪魔に近づくに従ってそれだけ悪人となる。むしろ人間は神と悪魔との対決の場であるといってよい。
 儒教の中庸思想における善と悪とはこのようなものではない。最上の善は礼に規定され、従って中庸の徳を具えたただ一点であり、この礼をそのまま実行する人は君子であり、聖人である。この中庸の点を外れるに従い、その方向の如何を問わず、外れる分量だけ悪に陥るのである。そして人間が必ずしも常に中庸の礼を守りえないのは欲望、すなわち私心があるからである。欲望そのものは決して悪ではないが、悪が起こりうるのは欲望が存在するために外ならない。悪魔によって惹きおこされる悪ではなく、人間に誰しも免れえない不調和に原因する悪であり、これは教育によって無限小にまで圧縮することが可能である。儒教はあくまで人間的な教であり、キリスト教のような神を信ずる宗教となりえなかったのは、このような点に原因がある。
 西洋思想においては神と悪魔、善と悪とは、相容れない対立の原因である。両者は必ず対決しなければならぬ。対決こそは西洋人の生活の根本理念である。それが外交では仮想敵国との対決、国内においては与野党の対立、社会においては万人の間における自由競争となり、この間に立って最後の勝利を得るのが人間最終の目的であり、同時に神の思召にも叶うことになる。
(「中国に学ぶ」『中国思想の特質』P37〜39宮崎市(いち)定(さだ) 著 中公文庫)

明確な善悪二元論、または善悪二神論は、厳密にはゾロアスター教のものであり、その影響下にあるとは言えキリスト教のそれはちょっと毛色が違う、というのが私の持説です。
また、ミトラ教はゾロアスター教の母体となっている側面はありますが、これはさらに(キリスト教以上に)善悪二神論ではなかった。その点においても、東條真人氏の言う「ミトラ教は、マズダー教(ゾロアスター教)の考え方を全面的に否定する」は同様だと思います。

まずキリスト教ですが、端的に言うと、悪魔に対抗する二元(二神)のもう一方は、神(GOD)ではなく、あくまでも天使です。『天使と悪魔』というベストセラーもありましたが、西洋キリスト教文化圏にあっては、これが自然な発想でしょう。悪魔といえども創造主にして唯一なる神に存在を許されて活動しているもの、という概念であり、「必要悪」という発想の淵源もここにあるような気がします。
ただ、一般の信者や、文化圏的になんとなく潜在意識にキリスト教が入っている、という程度の一般庶民の場合は、神学的にそれほど厳密ではありません。そのへんは日本人の宗教意識などと五十歩百歩なのであり、実は曖昧にとらえているのだと思われます。そこに古代文明からの思想的DNAとして、ゾロアスターの二元論が覆いかぶさってくる余地があるのです。

別の言い方をするなら、キリスト教はまず多神教を否定して、ゾロアスターの二神論をも否定して、唯一なる神と契約する一神教を確立しようとしました。が、下々の者達にまでそれを徹底させるには及ばず、矛盾して混沌としたものをも内包してしまったのです。だから、未だに二神から一神へと向かう途上でもあり、あるいは一神から二神へと逆噴射してるようなところもあるのです。

次にミトラ教に関してですが、これは一神教でもなければ二神教でもないと思います。究極のところでは全てを和合させて逆転再生させる哲学を持っている、という点において、永久対立と敵の撲滅を是とする二神論ではありえませんし、かと言って、他の全てを排斥して自分だけを信じろ、という意味での一神教でもありません。
むしろミトラは、仏教の華厳哲学の「一即他、多即一」や大本教の「万教同根」に見るような、一元斉一のもとの多神教に近いと思います。つまり東洋思想のひとつのルーツであるか、または分岐である可能性が高い。

したがって、ミトラ神やスサノオや、あるいはイエスも含めて、救世主の霊党・霊系の者は、「善悪二神論を体現している」のではなく、人類にミスプリンティングされてしまった(永久対立と敵対者撲滅の)「善悪二神論」の洗脳を解除するために、根源の神から使わされた神であり天使なのです。

(前コメントからの続き・・・)
ここで若干、解説が必要かと思われますが、東洋思想にある「陰陽」と、ゾロアスター教からキリスト教文化圏に伝播した「二元論」とは、似て非なるものであり、実態は似ても似つかないものであり、全くの別ものです。ここは何度強調してもしすぎるということはありません。
「陰陽」は変化変転する相互依存・相互交流であり、互換性さえありますが、「二元論」は絶対不変の敵・味方関係であり、最後の審判で悪が粛清される時まで、関係性が変化することは絶対にありません。
ここがわかってない人が、あまりにも多すぎる。なんだか哲学的でカッコイイから、「二元論」と「陰陽」をいっしょくたにしてしまうのです。賞賛するにせよ批判するにせよ、その間違った認識に基いているから、いつまでたっても偽神の罠としての迷路の中です。

ここで再び、前段落をカバーして表現しなおすなら、間違った病的な二元論哲学を正し、本来の陰陽同根の世界にリセットするため、根源なる正神世界から降ろされたのが、救世主たるミトラでありスサノオでありイエスです。
「善悪二神論を体現している」のではなく、それ(善悪二元)は捏造されたプロパガンダであり、無批判に洗脳されてきた人類の罪なのだから、それを打ち破るために投下されたピンチヒッターが、彼ら救世主のプロジェクトXだったのです。

故に、(とんでもないことを言ってしまうと)「私だけを信じろ(信じない奴は滅ぼす!)」と言った『旧約聖書』の一部に登場する神と、イエスが「天の主なる神」と言った『新約聖書』の神とは、実は別次元なのです。
他の民族宗教や信仰を撲滅して一神教を確立させようとした神よりも、はるか上位にして根源なるところの神から、イエスは遣わされているのです。支店の眼に余る越権行為をチェックするために、本店からやってきたのです。
ここの混線に、キリスト教文化圏の混迷と悲劇があります。

いくら救世主プロジェクトが、頑迷な二元論を打破して、本来の陰陽思想にリセットしようとしても、この世は迷妄エネルギーのほうが強くて多勢に無勢なので、ちょっと時代を経ると真の救世主エネルギーは隠蔽され、摩り替えられ、広告塔としてだけ利用されて、神話や聖典ごともとのもくあみに塗りつぶされてしまうのですね。
あと儒教の中庸についてですが、私は儒教が東洋思想の代表だとは思っていません。中国においては、ベーシックはあくまでも道教、老荘思想や神仙思想のほうであり、これが宇宙・自然の運行といった「人間的な教」を超えた根本の世界観を示しているのです。儒教は、その先の枝葉に付くものだと……。
この道教的世界観が、キリスト教的世界に対応させるところの、「(人間界を超えた)神(的存在)を信ずる宗教」となりえるものなのです。

原始仏教の「中道」と、儒教の「中庸」も違うのだと、高僧が説いている本を読んで、えらく納得した若い頃の思い出もありますが、仏教の「中道」は妥協なき「中道」です。
漫画の『子連れ狼』にも引用された「二河白道」の喩えが象徴的です。
http://www.d7.dion.ne.jp/~gyoun/niga.htm
http://shinshu.in/nigabyakudo
これはどちら様にもいい顔をして、何事もほどほどの平均値に妥協しておく、などといったような甘いものではありません。どちらにころんでも奈落の底です。中央の誠の白道を貫いてこそホトケの恵みもある、ということでしょう。
他力信仰である浄土門の教えからこういう喩えが聞かれる、というのも、ちょっと驚きです。

仏教にせよ道教にせよ、究極の真理や根源の世界観を前提とするものだからこうなるのであり、儒教の場合はあくまでも限られた人間社会の、政治哲学を述べたものです。仏教的に言うと、それは「方便」なのです。
帝王学とは言え、政治とはプラグマティックな産物であり、妥協なき究極の真理ばかりを、目先の細部の政策にまで突きつけていたら、何も始まらないでしょう。究極の方向性を見つつ、限られた時空の中では、とりあえず次の一手を模索するのが政治というものです。あちらを立てればこちらが立たずの状況も多いでしょうから、妥協を経て真実に進むのも、ひとつの手でしょう。
つまり、暫定真理でいいのです。有限の世界では、こちらも必用なのです。

こうした儒教の政治的と言うか、経営的な視点から「中庸」が出てくるのではないかと私は推測するのですが、だからと言って、それがキリスト教社会のような普遍的な真理を求める傾向にならないと断定するのは、違うような気がします。
後の時代の儒教や、日本的な儒教は、矮小化かつ世俗化されていった部分も多いけれど、開祖の孔子自身は、自分の教説を用いてくれる君主がいなかったので、後半生は流浪の生活を送っています。適当なところで妥協する「中庸」を実践していれば、決してそんなことにはならなかたはずです。やはり、決して曲げられない信念があったからでしょう。

東洋には東洋の文化的病がありますから、孔子の本心がなかなか伝わっていないのも、西洋とはまた違った病のせいだと思います。

「ミトラ神やスサノオや、あるいはイエスも含めて、救世主の霊党・霊系の者は、「善悪二神論を体現している」のではなく、人類にミスプリンティングされてしまった(永久対立と敵対者撲滅の)「善悪二神論」の洗脳を解除するために、根源の神から使わされた神であり天使」ですか。

 善悪二神論は小生のような凡庸なものにはわかりやすい教義です。

 一方、「一神論ということになると、人間と神との間には虚無しかなくて人間よりも高い位階というのは、最高の唯一神だけということになります。そして間に存在しそうなものはすべて悪魔にしてしまうのです。そうすると、人間はどんなに進化したところで、いつまで経っても人間だ、ということになってしまうので、人間の進化の意味もそこからはハッキリ出てきません。」※という協議はむなしさがのこり、救いがないように思います。


※一神論ということになると、人間と神との間には虚無しかなくて人間よりも高い位階というのは、最高の唯一神だけということになります。そして間に存在しそうなものはすべて悪魔にしてしまうのです。そうすると、人間はどんなに進化したところで、いつまで経っても人間だ、ということになってしまうので、人間の進化の意味もそこからはハッキリ出てきません。・・・道教でも仏教でも、日本の神道でも、シャマニズムを基底にもつ宗教は、人間と神との間に無数の霊的存在を考えて、それぞれがひとつの調和した全体を成している、と考えているのです。この考え方のもっている意味を、もう一度深く理解し直すことによって、西洋と東洋との間を霊的意識的に深く結び付けようとするのも、シュタイナーの大事な思想です。(「現代の神秘学」高橋巌 著 角川選書P35〜 36 )
(「ゾロアスターの神秘の思想」 岡田明憲 著 P166〜168講談社現代新書)にて、キリスト教は一神教で、悪の神をみとめないため、堕天使として悪を位置づける。(神が悪を創造することはありえない、というもの)
一方ゾロアスター教は「善悪二神論」にて認めている。
という趣旨の説明があり、キリスト教が持つ「二神教的要素」の意味をようやくしりました。
 深くは理解していませんが、教義としてはゾロアスター教に合理性があるのかもしれません。

キリスト教が持つ「二神教的要素」の補足※

※「中国の中庸と西欧の神と悪魔」
儒教の中心思想は何か、といえば私は、それは中庸の学説だ、と答えたい。この学説は、もっぱら『礼記』の中の「中庸」篇に説かれ、この篇は孔子の孫、子思の著だとされているが、これには大きな疑問がある。「中庸」篇の性質について、最も大胆な仮説を提唱されたのは内藤湖南博士である。博士によると「中庸」の中に、
   今天下は、車は軌を同じくし、書は文を同じくし、行いは倫を同じくす。
という句があるが、これは秦の始皇帝のり、天下統一の思想そのままで、それ以前にはなかった状態である。
   法度(はっと)・衡(はかり)石・丈(もの)尺(さし)を一にし、車は軌を同じくし、書は文字を同じくす。
とあって、「中庸」の句と符節を合するが如くである。おそらく「中庸」篇の成立は始皇帝による天下統一の時代まで下がるであろう、というのがその説である。・・・中国思想の特質は、これを西洋思想と比較した場合に一層明瞭となる。ここにいう西洋思想とはキリスト教の意味である。このキリスト教は通常一神教といわれながら、実はその本質において二元論なのである。すなわち神と悪魔とが対立して存在し、両者を一元的に説明する論理がない。おそらくこれは西アジアのミトラ教などによって持ち込まれたに二神教の影響であろう。人間は神と悪魔との対立の中間に位置しており、神に近づくほど善人となり、悪魔に近づくに従ってそれだけ悪人となる。むしろ人間は神と悪魔との対決の場であるといってよい。
 儒教の中庸思想における善と悪とはこのようなものではない。最上の善は礼に規定され、従って中庸の徳を具えたただ一点であり、この礼をそのまま実行する人は君子であり、聖人である。この中庸の点を外れるに従い、その方向の如何を問わず、外れる分量だけ悪に陥るのである。そして人間が必ずしも常に中庸の礼を守りえないのは欲望、すなわち私心があるからである。欲望そのものは決して悪ではないが、悪が起こりうるのは欲望が存在するために外ならない。悪魔によって惹きおこされる悪ではなく、人間に誰しも免れえない不調和に原因する悪であり、これは教育によって無限小にまで圧縮することが可能である。儒教はあくまで人間的な教であり、キリスト教のような神を信ずる宗教となりえなかったのは、このような点に原因がある。
 西洋思想においては神と悪魔、善と悪とは、相容れない対立の原因である。両者は必ず対決しなければならぬ。対決こそは西洋人の生活の根本理念である。それが外交では仮想敵国との対決、国内においては与野党の対立、社会においては万人の間における自由競争となり、この間に立って最後の勝利を得るのが人間最終の目的であり、同時に神の思召にも叶うことになる。
 ところが中国思想においては対立は決して常態ではない。もしあっても、それは相容れない二つの原理の対決ではなく、中庸と偏頗と、程度の差より生じる対立である。国際関係において中国は中庸を得たる礼儀の国であり、四方の異民族は過不及があって、未だ礼を習わない発展途上国である。故に中国と夷狄が対立しても、結局は礼を中心とする中国の文化の力で相手を同化してしまう。圧倒するのでなくて教化するのである。もし武力に訴えねばならぬ場合でも、中国人はこれを、王者には征ありて戦なし―懲戒することはあるが、腕力くらべすることはない―といって、相手が対等の地位にあることを認めない。
 中国の中国たる所以は、その政治が礼によって行なわれる点にあり、その礼は古代の聖王が、これこそ中庸の点だと定めて、後世永遠に遵守すべきことを命じたものである。これはたいへん合理的な説明である。
(「中国に学ぶ」『中国思想の特質』P37〜39宮崎市(いち)定(さだ) 著 中公文庫)
> 国際関係において中国は中庸を得たる礼儀の国であり、四方の異民族は過不及があって、未だ礼を習わない発展途上国である。故に中国と夷狄が対立しても、結局は礼を中心とする中国の文化の力で相手を同化してしまう。圧倒するのでなくて教化するのである。

……云々の文言は、いささか中国の歴史を美化しすぎでしょう。日本人が書いているとは、信じられないくらいです。どこかの政府のプロパガンダ請負人かと思われそうです。

中国「思想」においては、易や孔子や老荘を初めとする、高邁で深遠で柔軟性のある教えがあったことは事実ですが、実際の政治や軍事にそれが生かされた王朝など、皆無に等しいくらいのものでしょう。
いちいち例を挙げるのは、嫌中・反中の皆さんにおまかせしますが、大虐殺の歴史は中国共産党に始まったことではありません。あの大陸そのものが虐殺の風土です。刑罰も、身体各部を切断する残虐なものが当たり前。人食いの歴史(文化?)も根深いものがあります。
但し、そうした権力の横暴に抗い、正すため、(「お上」や「多数派」に付和雷同な日本人などにはない)強烈なタフネスや、高度な戦略・思想が練り上げられたことも事実であり、そこが中国の魅力です。
そうした文化・思想的な遺産と、世俗の上層権力の政治を混同するのは、極力避けなければなりません。
中国権力の歴史と、中国思想とは、全然、中庸に和してはいない。むしろ二元論的に対峙している、としても過言ではないでしょう。

嫌中の人達も、そのへんは気をつけて欲しいんですけどね。中国政府や中国マフィア憎けりゃ中国思想まで憎い!とならないように。私も太極拳、大好きですよ。(嫌中に言っても無駄かもしれませんがね)

 孔子も政治理念の実現を求めて戦国時代の諸国を放浪しました。
理想の実現が難しいことは、現実主義者の中国の人が一番よくしっていることでしょう。

 諸子百家の時代、孫子の兵法があれば、防御の専門家集団が墨家が登場するというようにしたたかで現実的なところが、中国の思想の特徴ではないでしょうか。

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