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地球伝承 〜 古代から未来へ 〜コミュの将門、清明、天海 〜 アセンション序章 〜

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        左:映画『帝都物語』のDVDパッケージ。
        中:将門の首塚。
        右:NHK大河ドラマ『風と雲と虹と』のDVDパッケージ。

(☆このトピックは、個人日記と同じ内容のものの同時掲載です)


 以下、ホームページ「将門伝説」より引用。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kyukaidou-tougemichi/masakado-ran.html
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 今から凡そ一千年も昔、平安時代に下総国の相馬郡(現在は茨城県)で、桓武天皇から五代の末裔となる平将門は、父親の病没後の遺産として残されるべき土地を叔父達親族に掠め取られてしまいます。それでも我慢を重ねながら朝廷から与えられた牧官としての任務にひたすら励み、駒の飼育を続けながら、農民や伴類、蝦夷、渡来人など、とかく世間から疎んぜられている人々も含め平和に暮らせるような国土を築こうとの思いに、曲輪から岩井辺りに新たな土地を開拓し続けるのです。
 しかし、それでも執拗に親族に土地を狙われ、ついには逆襲し叔父国香を討ち、更には常陸の国衙に逃げ込んだ敵を討ったことなどで、勢いに乗じて関八州を奪い、八幡大菩薩の託宣を受けて自らを親皇と称し、相馬郡岩井の地に居館を構え弟ら主要な配下には坂東の各国の受領を任命するなどした事で逆賊の汚名を受け、朝廷による追討軍が結成されます。しかし、その到着より僅かに早く、天慶四年二月十四日(940)下野の国田原辺りに住む俵藤太、藤原秀郷に討たれ、その首は京都に運ばれて四条に晒されてしまいます。
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 以下、ホームページ「平将門公(平将門伝説)」より引用。
http://www.geocities.jp/haguma27/masakado/index.htm
「日本歴史伝説 傑作選」(学習研究社)の引用、(文 武田昌憲 茨城女子短期大学助教授 2004年2月23日発行)
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 竜巻のように坂東を席巻した平将門。それは王朝の落日を暗示する弔鐘となったが、「新皇」の自称が都の逆鱗にふれて討たれた。将門の首は京に運ばれても死なず、あな恐ろしや、かっと目を見開くと、胴を探しにいくと言って東の空に消えた。
 当時の関東の人々は重税と飢饅に悩まされ、それを顧みない国の役人の横暴に対して強い反感を抱いていた。そのとき、国府を次々と襲い、国司を都へ追い返す将門を見て、快挙と映ったにちがいない。そのため彼は英雄視され、各地に様々な伝説が広まることになる。超人将門伝説はその信仰とともに今日でも生きている。
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 神社フリークであった私も、これまで平将門ゆかりの神社や霊場には足を運んだことがなかった。明確な根拠などないが、首塚にまつわる数々の祟りの伝説だとか、荒俣宏原作の映画『帝都物語』(映画1988年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%83%BD%E7%89%A9%E8%AA%9E 
http://mycinemakan.fc2web.com/japanmovie/teito-monogatari.htm
による、おどろおどろしくも暴悪な闇の魔神のイメージが強く、とりあえず敬遠してきたきらいがある。
 “元祖”「反逆のカリスマ」的なキャラクターは、むしろ私の望むところなのだが、私の中の闇の因子と共鳴しすぎた時にブラックホールのドツボに吸引されそうな気がして、そういう親近感故の食わず嫌いというか、屈折した逆説心理もはたらいていたかもしれない。
 それがなぜ今になって訪ねる気になったかというと、星神:天津甕星(=天香香背男)のマイナーな日本神話を追っていくうちに、この坂東の「反逆のカリスマ」の元祖以前の元祖は、神話の天甕星だったのであり、この甕星神の霊的DNAが平将門へと流れこんでいたのではないか、との確信が強まってきたからだった。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=24612449&comm_id=1384494
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=618761162&owner_id=386027


 実際の巡礼紀行は、近々の個人日記のほうに回すとして、将門の謎を追っていこう。

 要するに将門公の怨霊の根拠とは、平安期の朝廷や貴族に対する(結果論的な)逆賊という位置付けのみであり、私に言わせれば「たったそれだけの話」である。文芸的見地からすれば、シェークスピアの運命悲劇の格好の素材にもなりそうな、ある種の“いい話”ではないか。ただひとつ、雅(みやび)な「和」の民のお気に召さない要素があるとすれば、それは判官びいきの哀れみの対象としてのアイドルの座を拒絶し、死して尚、復讐と反逆の火焔をたぎらせ続けるという、孤高にして激烈な「祟り神」のイメージだろう。
 なんでもあやふやに水に流して、無かったことのキレイゴトにしてしまいたいという脆弱な国民性。死ねば皆、柔和な神になるとすることで、とりあえず我が身を(祟りから)保身したいという事なかれな平和願望。それら「日本教」の不文律や予定調和を、根底から覆すアブナイ雰囲気が将門伝説にはある。日本民族史の開けてはならないパンドラの箱の鍵穴を爆破しかねない、現ぶる御魂の発動がそこにある。

 だからこそ、東国においては昔から絶大な人気を誇る正義の味方だった。隠蔽や偽造の上塗りを繰り返して、この国の仕組みをでっちあげてきた為政者どもに、いつの日にか冥府魔道から蘇生して、情け容赦のない天誅を下すスーパー・ヒーローが将門様なのだ。
 フィクションの中でさえ、ランボーやジャック・バウアーのいないこの国で、ひとつくらいこういう伝説が生き続けたっていいじゃないか。……おっと、そういえば我が国にも『子連れ狼』の拝一刀がいたか。

 その潜在的支持率を掘りおこしたのが、海音寺潮五郎原作によるNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』(ドラマ1976年)だろう。
http://mobile.seisyun.net/cgi/wgate/%E9%A2%A8%E3%81%A8%E9%9B%B2%E3%81%A8%E8%99%B9%E3%81%A8/
 このドラマの影響下で、明治期の皇国史観華やかなりし頃に神田明神の祭神名から外されていた将門霊が、110年ぶりに復活したというのだからたいしたものだ。

 とは言え、NHK大河ドラマのほうの将門像は、『帝都物語』の魔神像からは想像もつかない、あまりにも人が好い正義感で、うぶで単純すぎる体育会系の青春ドラマのようだ。この落差はいったいなんだろうか。前者が坂東の民が抱くイメージであり、後者はどちらかというと、平安京の文化的DNAが抱くイメージなのだろう。

 一方、『帝都物語』はSFオカルト・エンターテイメントとしてはよくできていたが、将門の怨霊パワーが帝都東京の壊滅に利用されるという設定には、いささか無理がある。まるで※アニメ映画『風の谷のナウシカ』の巨神兵のように、人格の乏しい(あるいは未熟な)最終破壊兵器としてのみ存在するかのような扱いも、将門ファンには失礼な話だ。(※原作のコミック版では、巨神兵はナウシカとの絆により目覚めて、世界を「破壊から守る破壊」としての働きをする、きわめて逆説的な人工生命体として描かれている。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%F0%BF%C0%CA%BC
 むしろ江戸や関東を結界して鎮護する守り本尊が、将門だったはずだ。祟るとすれば為政者や官僚達にであり、土地柄的には西の朝廷こそがリベンジのターゲットだろう。が、そこまでタブーを明確化してしまうのは、現代の荒俣宏氏でも気がひけたのかもしれない。自身の出身地である東京をターゲットにするという、自虐的な構造を装うことでカムフラージュしておいたのかもしれない。

 私自身はこの両者、『風と雲と虹と』と『帝都物語』との折衷的なところに、将門のキャラクターを思い浮かべていたのだが、実のところ両作品とも通しで見たことがない。『帝都物語』は漫画週刊誌のコミック版で何回か見ただけだし、『風と雲と虹と』は昨年リマスターされてTSUTAYAに並んだので、初めの一巻(四話収録)だけ借りてきて見たが、旧き良き時代のあまりの青春ドラマぶりに頓挫してしまった。


 将門のスーパー・プレミアム伝説として、私の中では絶対に外せないのが、平安京の異能の天才陰陽師、安倍清明が、実は将門の実子だったという異説である。つまり、拝一刀に対する大五郎が、将門に対する清明だったのであ〜る。
 
 以下「安倍清明の隠された過去」より引用。
http://fleshwords.at.infoseek.co.jp/dt/dt067.htm
****************************************************************************
時の帝・第65代花山天皇が、最も信頼していた一人の男がいました。
そう、彼は陰陽師・安倍清明。

安倍清明の生年には諸説あるが、
「安倍氏系図」によると、延喜21年(921)〜寛弘2年(1005)で、84年間の生涯を全うしています。

清明の出生地は、和泉国・阿倍野だと言われています。
父・安倍保名は、ある日、山で狩猟に追われている白狐を助けました。
山を出ると、そこにいたのは絶世の美女。名は葛の葉。
実は、この女は、山で助けた白狐でした。
二人は結婚して、童子丸という子を産みました。
数年、家族は仲睦まじく暮らしていましたが、
ある秋、菊のにおいに酔いしれ、母・葛の葉は白狐としての本性をあらわしてしまいました。
葛の葉は、障子に歌を残して、家を去っていきました。

「恋しくば訪ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」

歴史書「大鏡」に次のようなことが書かれています。

花山天皇が退位をしようか迷っていたとき、
安倍清明は占いにより、退位を勧めました。
そして、寛和2年(986)6月23日、花山天皇は退位しました。
天皇が退位し、法皇となったあとも安倍清明と花山天皇はやりとりを続けていました。
そんなある日、安倍清明は法皇に「一緒に東国へ行かないか?」と言いました。

陰陽師は天皇で使える職であり、法皇にはもう用がないのに、なぜやりとりを続けていたのだろうか。
なぜ、東国へ行きたがっているのだろうか。

その謎を解くカギは「信太の森の白狐伝説」にあります。
先ほど書いた、清明の母が白狐だという話です。

当時の東国は、平将門の乱が起きたあとでした。
その乱は、平将門が、新皇を名乗り、東国に独立国を作ろうとしたものです。
しかし、将門は天慶3年(940)2月14日に平貞盛と藤原秀郷により殺され、京の都で「さらし首」となりました。

そして、平将門が治めようとしていた東国の常陸国には信太という地名があります。
そう、信太の森の白狐の「信太」です。
しかも、阿倍野だけでなく、ここにも「清明神社」があります。

平将門の息子のうち、殺されずに生き残ったのが一人います。
彼の名は将国。ここ信太郡に隠れ、信太姓を名乗ったとの記録が残っています。

これらから異説が唱えられます。
安倍清明は大阪(和泉)・阿倍野ではなく、茨城(常陸)・信太の出身で、
実は平将門の生き残りの息子である。

彼は信頼できる花山天皇とともに、
父親の意を継いで東国に独立国を作ろうとしたのです。

結局、東国へ赴くこと叶いませんでしたが。
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 それまでの私は、安倍清明は生粋の平安京文化圏のオカルト・スターだと思っていた。だからこそ京の裏の裏に跋扈する妖怪変化や魑魅魍魎の世界にも精通していて、なかば遊び心を持ってそれら異界の魔物を手玉にとっていたのだと。
しかし、彼の魂の奥底は、腐敗した貴族政治を脱却し関東に新たな理想郷を開拓するという、父の将門直伝の悲願を抱いていたのではなかったか。それが藤原氏の策謀により、花山天皇が退位(失脚?)させられたことで頓挫してしまった。
http://inoues.net/tenno/kazan_tenno.html
 一度は夢を断たれた清明は、ひるがえって京の都に踏みとどまり、この都の行く末をこれ以上、百鬼夜行の巣窟とさせぬため、自身がオカルト防波堤の捨て石となることが天命であると意を固めた。そう考えてみると、知的爬虫類のようにクールでとらえどころのなかった清明の存在感が、圧倒的な光度と熱い血潮を伴って、ぐぐっと迫ってきた気がしたのだ。
 
 私の妄想はここにとどまらない。詳しく書くと長くなるので、要点だけまとめよう。

 将門グループが造った関東の結界は武神の結界であり、京の公家の結界に対抗するものだった。そして、この関東の結界を受け継いだのが、戦国末期〜徳川初期の天海僧正である。http://dhistory.hp.infoseek.co.jp/tai_2_24.htm
 家康の知恵袋、天海の前身は明智光秀だったという、これまたマニアの間では有名な異説があるが、光秀は当初、朝廷に忠誠を尽くしていたものの、信長暗殺実行犯として利用され罪を着せられたため、公家の面従腹背政治に愛想を尽かす。陰謀には陰謀をと深く潜行した光秀は、天海として復讐の策士となり、反朝廷の共通目標のため将門プロジェクトを引き継いだのである。
 
 その後、光秀天海の結界を破って、政権奪回したのは維新の明治政府だった。東・北の結界に対する西・南の反撃である。http://www.yagiyama.jp/health/column.edo.htm

 ここまでだとえらく暗い、エンドレスの恩讐話だね。

 このシナリオのさらに奥には、驚愕の神劇が隠されている。平安京の公家の結界は、その遠きルーツを辿れば、アトランティス系ユダヤ民族⇒表の天孫:ニニギ王朝の日本エルサレム化計画が隠されている。関東武者の結界は、ムー大陸系日本民族⇒裏の天孫:ニギハヤヒ王朝による復古プロジェクトである。そして、このユダヤ⇒平安貴族系と、ニギハヤヒ⇒関東武者系は、もとを正せば同じ高天原神族の二大潮流の末裔なのである。
 この二大潮流が死力を尽くして絡み合い、魂の戦いを経て自己浄化し、統合・昇華していくことによって、このたびの地球のアセンション(次元上昇)は完成する。

 めでたし、めでたし。


(☆このトピックは、個人日記と同じ内容のものの同時掲載です)






コメント(13)


 安倍清明の母親が狐であったという伝承には、たぬきが男性的印象をもつのにくらべ「キツネが女性的印象をもつ」(中村禎里 著 「狸とその世界」 朝日新聞社)ことが、歌舞伎、講談を含め狐女房が登場する背景になったと思われます。*

*狐女房の話は平安初期の「日本霊異記」にもあり、後に他の話と合体して「信太妻」(しのだづま)「葛の葉」や歌舞伎「葦屋道満大内鑑」(あしやどうまんおおうちかがみ)に登場。―出典:小学館 「サライ」10号 2000年5月18日―
下記1から3の流れを通じ、「ツキヨミとは対する側の末裔である平将門が鬼王神社に祀られている」、ということは「天智天皇系で天武天皇系の和解・融合」を示すものなのか、と不思議な思いがしました。


1.「天智天皇系で天武天皇系から冷遇され恨みを持つ桓武天皇は、天武天皇が自らを擬した「ツキヨミ」の由来や事績などを最小限まで削除(「ツクヨミ秘された神」 河出書房新 戸矢学 説
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=26779902&comm_id=1384494 
3月17日 31
2.「桓武天皇の末裔である平将門」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=748986236&owner_id=386027
3.「平将門にゆかりのある鬼王神社の鬼王権現は、月夜見命・大物主命・天手力男命」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=759032588&owner_id=386027
これは資料が曖昧で不足しすぎていて、話の輪郭が見えてこない気がします。

まず、「天武天皇系から冷遇され恨みを持つ桓武天皇」という設定ですが、(天武と同世代の)天智の四代目の裔である桓武天皇の代まで、天武系の勢力がめんめんと継続し、幅を利かせていたとは思えません。
このへんの時代はともかく目まぐるしい覇権と権謀術数と暗殺の時代であって、ある勢力が別の勢力を「冷遇した」というほどの安定独裁政権はない、と私は見ます。お互い様であり、どっちもどっちであり、油断大敵の“裏”戦国時代です。
そして実質的には、天武のすぐ次の持統の代で、すでに藤原不比等が暗躍し、着々と漁夫の利をせしめていく時代です。天武系VS天智系という表向きの対立図式は、さほどの実体はないでしょう。
(参照⇒ http://barclay.free100.tv/oldhist/temmu2.html )
このへんに戸矢学氏とは根本的な歴史観の違いがあるような気がします。

また天武という男は、藤原不比等とは正反対のタイプであり、自分の血脈子孫に世を支配させるということに血道をあげることはせず、それよりも世の仕組みを根底から改革し作り上げることに血をたぎらせるタイプだと思います。いわば織田信長タイプであり、自分一代でどこまで世の中をひっくり返し、新たにつくりあげられるか、というヴィジョンに燃えるのであり、あとは「是非もなし」です。

また、戸矢学氏の説によると、まるで天武が初めて三種の神器を制定し、そこに当てはめるべくツキヨミの神も(フィクションとして)つくりだされたかのようです。

>・・そして天武天皇は、三種の神器を制定する。広くそれを宣言し、記紀にもそれを記させ、天孫降臨まで淵源を求めた。そこでツキヨミのデビュ-となる。勾玉を第三の神宝とするためには、それを御神体とする神が必要となる。天武天皇は、「日」に対する「月」から、「太陽」に対する「太陰」から、「月讀」という神を創造した。

確かに“元”太陽神:饒速日のほうは、後発の朝廷に権威や伝統を「消された」とは言え、各地の古社に痕跡が残っています。が、月神:ツキヨミに関しては、『記紀』王朝以前に信仰の痕跡を探るのが困難であり、『記紀』成立期に誰かが取って付け足した神である、との説が成り立つ余地もあるのでしょう。
ここらへんは物証がないので、科学的・考古学的・文献学的には何とも言えません。でも、直感的には「うっそだ〜い!」という気持ちが強いです。月神もまた太古の昔から日本にあったのであり、それは水神グループの裏に隠れていたのだという気がします。
火神&太陽神グループと、水神&月神グループを代表・象徴させて、饒速日と瀬織津姫のペアが古代スタンダードとしてあったのです。それが皇祖神たる女神アマテラスが『記紀』によって“創造”されたことにより、それ以前のリアル古代の原型の女神が邪魔となり、瀬織津姫が徹底的に封印され、その女神を裏でサポートするツクヨミも、それ以上に存在感が薄いのだと。

話をもどすと、
桓武天皇は天台仏教を国教として取り入れた天皇ですが、裏事情としては怨霊の祟りに悩まされ続け、陰陽師による除霊や結界に頼り、平安遷都のそもそもの動機もそこにあったという見方が有力です。つまり、動機はともあれ、陰陽道を大々的に取り入れた最初の天皇でもあるのです。
陰陽道の大陸ルーツが道教であり、太一、天帝の北極星信仰や星辰信仰ですから、これは天文遁甲に長じた天武の得意技でした。そして将門も北極星&北斗七星の信仰や霊術を駆使していたようですから、それぞれ血脈はつながっていなくとも、信仰のベースはもとより同類なのです。霊脈的には、天武と将門はむしろ同族、と言わぬまでも、かなり近いと私は思いますね。

余談ですが、将門の家系は確かに天智⇒桓武の系譜ということになってますが、記録にはハッキリしない部分で、海人系が入ってるような気がします。(馬を操るのが巧みだったから、騎馬系も入ってるかもしれませんね。これもおそらく天武と共通因子だと思います)
▽以下、http://dhistory.hp.infoseek.co.jp/tai_2_24.htmより転載。
やがて安房国より「流れ三つ巴」の紋を持つ漁民集団が移動してきた。そして柴崎村を形成して行った。史蹟 将門塚保存会発行の「史蹟 将門塚の記」によると、将門は安房を良く訪れ、延長3(923)に安房郡洲宮神社に太刀と神馬を奉納、承平3(932)には社殿を再建・祭田を寄付している。

鬼王神社に祀られているツキヨミの件ですが、これもそもそも将門信仰を隠し朝廷の弾圧を避けるためのもの、というのが私の解釈ですから、仮に万が一「ツキヨミと将門が敵対関係」であったとしても、むしろそのほうが好都合、という理屈になります。(ちなみに鬼王神社に将門が祭られているという神社側の公式記録はありません)
しかし、それ以前に、鬼王神社の最も古い原型とされる記録でも承応2年(1653年)のことですから、
http://www.xiangs.com/Masakado/shiseki/tokyo/kiou1.shtml
天武・天智の600年代とは千年も隔たっていて、地理的にも別の文化圏と言ってよく、皇族・貴族の末裔が建てた社でもありません。農民・漁民・平民の素朴な生活の中で信仰されてきたものですから、もともと実態の乏しい「天武系VS天智系」のことなど、なんのことやらわからず、そんなのカンケイな〜い!の世界でしょう。
戸矢学氏は、天武を顕彰する立場ですが、天武・桓武も風水、五行説に詳しいところは共通しているとしています。

 一方、「陰陽道・道教」において将門は天武に近い、という管理人様の見方ですが、天武・桓武・将門は意外に共通項があるのかもしれません。

(将門=海人系に対して、天武=大海皇子が示すように海人系と天武の関係も考えられます。)

 天武・将門の関係をあえて隠蔽するために表面は(天武=)「月讀と将門の敵対関係」を利用し、鬼王神社は実は将門を祀る、という考え方が、裏読みのしすぎかもしれませんがしっくりきます。

 管理人様が4にて引用されたhttp://dhistory.hp.infoseek.co.jp/tai_2_24.htmにある将門関連の神社の配置が北七星のレイ・ライン(星であればむしろ、スター・ライン?)となる、という説は、道教、天武とぴったりかさなります。

 月よりもむしろ、星信仰において天武・将門は重なるのか、興味深くおもいました。

 余談ですが、道教の北の皇帝が位置する、という思想が中国の「(君子の)南面」*という「論語」の考え方にもつらなることを感じました。

 *「『論語』における君子の南面」
・子曰、雍也加使南面、子曰わく、雍や南面せしむ可(べ)し
雍とは、・・・弟子の仲弓であり、そこでも説いたように、低い階級から出た弟子であるが、ここは、この弟子を南むきにすわって政治をする地位、つまり、大名、また極端なある説では、天子、その地位についてもよい人物だと、激賞したのである。
「論語 上」雍也第六 吉川幸次郎 著 朝日文庫 朝日出版社1987年 P165 
   写真右:青井・愛宕神社境内の三山碑。
     写真中:平成15年に完成した青井・愛宕神社の新本殿。
       写真左:青井・愛宕神社境内にある石像。
 (http://www.adachi.ne.jp/users/a.trm/ayasemura2.htm より転載)

▽以下は私の日記の続編、
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=796217373&owner_id=386027
「北斗七星の先は・・・? 〜 将門巡礼☆番外編2 〜」からの転載です。

>都区内の将門ゆかりの神社・霊場は、将門が信仰した北斗七星の配列になっている。
という話をしましたが、
             
では、
>江戸の北斗七星の先、北極星に当たる部分には何があるのか、気になりました。
という疑問が、マイミクさんからありました。
私自身、気になっていたのですが、今日、やっと大きく広げられる地図を買ってきて確かめてみました。

兜神社と鳥越神社を結んだ線を5倍に延長していくと……、
そこは足立区の青井とか一ツ家とかいうあたり。
西新井薬師のちょっと東、綾瀬のちょっと西ですが、たぶん都区内としてはローカル地帯でしょう。
この付近で神社らしきものは、青井公園のすぐそばの愛宕神社だけ。ホームページもないくらいだから、小さな無人の神社かな。……と思って検索しまくったら、ひとつだけ、ちょっと詳しい情報をゲットしました。

http://www.adachi.ne.jp/users/a.trm/ayasemura2.htm
(以下、上記HPより引用)
平田家の屋敷神であったものが地区の神社になった。足立区では唯一である愛宕神社は、武家の崇敬が篤い勝軍地蔵が祀られている。創め、平田家の東に鎮座していたが、熱心に信仰する人が増え、参拝し易いようにと屋敷の表へ移し、明治の初めに下妻道に面した場所に移し(若菜家の敷地)村持ちになり、再度、現在地を求め、新地番制に伴い、青井5町会の区域を氏子に加えた。

愛宕神社というからには、祭神は迦具土(カグツチ)かと思ったら、

ほむすびのみこと(防火)
みづはめのみこと(水神・安産)
やまとたけるのみこと(武・戦の神)
三柱の神様を祀る。

とあります。

火神と水神をセットで祀るところは、イザナギに斬殺されたカグツチというよりも、饒速日&瀬織津姫の元伊勢の古代神祭祀を感じさせます。
また、御神体には「勝軍地蔵尊像」を安置、ともあるので、武の神、勝負の神を祀るところは、将門祭祀と共通するものもあるかもしれません。

さらに気になるのは、「平田家の屋敷神であった」というけれど、もしかしてこの平田は、国学者、平田篤胤と関係するのでしょうか。
維新倒幕の思想的原動力となった平田国学だけれど、意外にもこの平田篤胤が“逆賊”将門をあつく崇敬していたという話があります。姓に「平」の字が入っているのも、篤胤が平将門の末裔であったからだと。

http://www.rekihaku.ac.jp/relieved/l0005.html
(以下、上記HPより引用)
平田篤胤ほど固定イメージをいだかれている人物も少ないのではないか?平田国学の話をすると、ほとんどの場合、廃仏毀釈の張本人ではないか、とか、戦前諸宗教の上に君臨した国家神道の創唱者ではないのか、といった意見や批判が出てくる。
また性格的にも偏狭で、国粋主義的な国学者の立場から、僧侶や儒者にガミガミ攻撃的な非難をあびせた、といったイメージをもたれているらしい。しかし、今回の展示品の中に、篤胤が大事にしていた新井白石肖像画があるように、学者としてすぐれ、実証的に論理的に学問をおこなう人物に対しては、相手が儒者であれ、深い尊敬の念をいだき、自己をその域に達しようと日夜努力したのである。
また国家神道の親玉といったイメージをもっている人々には、展示されている平将門神像をみて、びっくりするにちがいない。この平将門像は、1825年、常陸国から江戸の篤胤宅に持ってこられたものであり、篤胤の信仰あつく、平田家に今日迄伝えられてきたものである。
国家神道の立場からすれば、将門は天皇への反逆者以外のなにものでもないのに、なぜ篤胤がこれほど深く信仰したのか、このあたりの謎解きから、平田国学や篤胤の説いた復古神道への理解が始るのだろう。


考えてる顔…………う〜〜〜んexclamationexclamation & questionあせあせ(飛び散る汗)

▽引き続き、上記日記のレスから転載します。

>北斗七星と北極星って、どんな関係なんでしょうか。

詳しく突っ込まれると、私もなんだかよくわかりません。
北斗七星は世界各地で神話になったり信仰されたりしてきたようだけど、特に古代中国の道教系の占いや霊術では、重要視されたようです。
そして、なぜか北極星とセットなんですね。北極星を見つけるのに、北斗七星が便利だからでしょうか??

北極星は動かない(ように見える)星なので、天の支配者=天帝(太一、太極・太乙)とされ、その周囲を巡る世界の御者(運び屋さん)のような役割をするのが七星とされたようです。
伊勢神宮の遷宮祭に、この思想が反映されている、と見る学者もいます。でも、動かないはずの最高神(大和朝廷以降の日本では天照大神)が、なぜ御者の籠に乗ってあっちこっち遷宮してしまうのか?というのは、未だ謎ですが……。

ホントは輔星、弼星(たぶん見えづらいちっちゃな星)とをあわせて「北斗九星」とする古流の流派もあり、これが千葉氏の九曜紋に反映されている、とも言われます。 (北極星と合わせると十曜紋になる)
日本では星は☆ではなく○で表したんですね。

なお、北極星の仏教的転化が妙見菩薩です。神道では文字通り「天の真ん中」ということで、天御中主(アメノミナカヌシ)になったようです。
でも、古来、庶民が天御中主を祀るという習慣はなかったようで、だいぶ後の時代になって、大陸の北極星信仰が日本では抑圧され、変形して、民間に降りてきてから、この『古事記』の初発神と習合され祀られるようになったのでしょう。
民族的にも古くから祭られてきた最高神は、むしろ国常立(クニトコタチ)なのですが、こちらは『日本書紀』で初発神とされながら、北極星信仰と習合することなく、歴史の裏に秘されてきました。これも大いなる謎です。

>方位的なパワーってあるんですかね〜

方位的なパワーがあるかどうかは、全くわかりません。中国の風水でも、そんな術は聞いたことがありません。
基本は東西南北と季節の運行と、地形・地質であり、天にある立体空間を地上に投影したところで、なにか意味があるのか? 仲間内に通じるサインのようなものでしかないのでは?と思ってしまうのですが……。
でも、まだ明かされていない秘術があるのかも知れず、何とも言えません。
その後、興味深いサイトを発掘し、認識を改めました。
北斗七星を形どった上を、特殊な歩行法で歩くという、道教由来の呪術があったようです。

私がちょっとかじったことのある中国武術の八卦掌も、掌を天地や四方にかざしながら、ひたすら円周上を歩く修行をします。伝説によると仙人に授けられた武術ということで、やはり道教(神仙道)思想の反映があります。
日本では陰陽道に継承されたのは当然ですが、日本古来の歩き方とされる「なんば」や、相撲の摺り足、能の六法(を踏む)、などともリンクしてくる、非常にミステリー心を刺激される世界です。

というわけで、地上の自然エネルギーをわりと受動的に利用する風水術よりも、もっと能動的に天体のパワーを引き寄せてくるような、別派の結界術があったのかもしれません。
将門祭祀の地上図形も、それを巡礼して歩くことによって何らかのパワーを発揮するという、実験的意図があったのかもしれません。
(ただ、あまりにも実証・傍証に乏しいので、『月刊ムー』的なトンデモ仮説ではあります)

↓次のコメント欄へ、引用文続く。
以下、下記サイトよりの抜粋、転載。
http://9009.teacup.com/cojimagu/bbs?OF=70&BD=13&CH=5
(夜須町と日本の古代)

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反閇は、神楽や能楽 投稿者:児島宮歴研会 投稿日:2006年11月 6日(月)09時40分52秒

「兎歩(うほ)」という北斗七星の形や八卦の意味を込めた歩行法反閇は、神楽や能楽などに取り入れられている反閇の原点である北斗七星の形を踏んでいる天地の安寧や穀物の豊穣などを祈願する呪術的儀式舞と思われる。

天地交泰禹歩法 投稿者:児島宮歴研会 投稿日:2006年11月 6日(月)08時55分38秒

北斗七星の星の順に歩を進めていくことにより、悪い星回りを破り、よい星回りを呼ぶというもの。 古くは雨を降らせるための呪術であり、禹歩とも呼ばれている。


能舞台と北斗七星 投稿者:児島宮歴研会 投稿日:2006年11月 6日(月)08時34分56秒

(陰陽五行の思想を礎とする)の歩行呪術法禹歩を受け継ぎ、日本の陰陽道に取り入れたものを反閇と呼ぶ。「能」とは?「祈り」である継ぎ足とでもいうべき歩き方で、先に出た足に後の足を引き寄せて左右に歩みを運ぶ。北極星と北斗七星が天空の支配者

星の信仰
星を踏む神々
「六方」という独特のステップを踏みながら釡の四方を巡ります。
一般的に「反閇」と呼ばれる
禹歩の一種である「返閉局法」
北斗七星を地面に描き、その星をひとつひとつ踏むことによって天帝と一体化し、不吉な状況を反転させました。「閇」も「閉」も、意味は同じです。
「てんはくのうた」天白様と星七夕伝説の織姫=こと座のベガのことです。
いや天白御前の遊びをば
いや雲をわけて遊ぶなり
いや星の次第の神なれば
いや月の輪にこそ舞い給え
いや紫の八重雲わけて下り給う
いや天白御前に遊び参らん

呪文を唱えながら行う。


「尊星禹歩作法」 能や相撲馬術獅子舞 投稿者:児島宮歴研会 投稿日:2006年11月 6日(月)07時52分33秒

「禹歩」は、古代の聖天子「禹」の歩きかたをかたどったものと伝えられる(1)。「禹」は『史記』などの歴史資料において夏王朝の始祖とされている人物である。

禹歩の歩行術を用いて、魔物が隠行するこの世との接している異空間や世界、仙人や妖怪などの隠れ里、呪術により隔離された空間などに、出入りする。
 異空間とこの世の接点へ向け、咒言を唱えながら禹歩で歩行することで、二つの世界の通り道を見つけて進入脱出する。術者の後を間違えずに歩くことで、術者以外も異空間に出入りすることが可能。


「尊星都藍禹歩作法」 投稿者:児島宮歴研会 投稿日:2006年11月 5日(日)18時55分40秒

妙見信仰とは、北辰(北極星ー天の北極にある星で今言う北極星に限定されない)と北斗(北斗七星)にかかわる信仰で、天台密教では北辰(北極星)のことを妙見菩薩あるいは尊星王(そんしょうおう)と言い、他の星を統御し、天下の興亡を司り邪気をしりぞけ長生を保たせる力があるとして「尊星王法」が修せられます。「尊星王法」は妙見菩薩をまつる天台宗・寺門派(本山派修験)の秘法ですが、この行法には、陰陽道特有の反閇(へんばい)が伴ないます。ちなみに、反閇は、禹歩(うふ)とも言い、陰陽師が足で大地を踏みしめ、呪文を唱えながら千鳥足風に歩む呪法で、皇族公卿の外出・転居の際、この呪法をおこなう陰陽師が先行し邪気を払うというものです。禹歩と言い、あるいは反閇と言うそれは魔術的な歩法の一種である。北斗七星 となるような歩き. なんば歩き:右手と右足、左手と左足をそろえて歩行する明治以前、日本古来の歩行法。禹歩、反閇ですから山伏・道教・陰陽道系作法もしくは能や相撲の四股などでも名残が見られるものを取り入れて舞っています。

禹歩
歩行呪術で、北斗七星の形や八卦の意味を込めて、継ぎ足で歩行することによって、簡易的な結界を貼り、魔物から身を守る。対象は術者と術者が歩行した跡で、魔物は術者に危害を加えることや、その歩行の跡を跨いで進入することが出来なくなる。
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▽その他の参考サイト。
http://www.hum.ibaraki.ac.jp/mayanagi/students/98ohira.htm
(禹歩の技法と思想)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~t-sato/index44.html
(反閇と四神)
http://redmorning.blog47.fc2.com/blog-entry-2.html
(暁の宵 反閇と四神)

 竜系の禹の原義は、「魚」ともいいますが、殷人は、これを農作とともに洪水神の「竜形の神と解した」そうです。*そうなると禹歩 も殷代、農耕とともに治水の神として評価されるようになった後の(魚ではなく、竜としての)禹が道教、陰陽道に反映したように推測しています。




禹はもと魚形(偏枯)の神であった。・・・しかしこの偏枯が、もとの禹の神像を示すものであったことは早く忘れられて、それは治水のために山川の間を跋渉し、病みつかれた禹の姿をいうものと解された。羌系の共工およびその臣などが、みな竜形の神であるのに対して、夏系の洪水神は魚の形を本態として考えられている。禹の字形は、両竜を組み合わせた形であるが、・・・文字が殷人によって作られていることからいえば、殷人は、これを洪水神の一般の形態として、竜形の神と解したのであろう。・・・・・・殷人がもし竜トーテム的信仰をとり入れていたとすれば、それはおそらく屈家嶺文化の稲作農業と関係があろう。
(白川 静著「中国の神話」中央公論新社P71〜85)

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