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2020年03月26日16:29

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旧友たちへのメールから・新約聖書の愛の盲点

  「己の如く、汝の隣人を愛せよ」、「神は愛なり」などの言葉を下敷きに島田療育園関係者は頑張ったが、挫折した。同様なクリスチャンのボランティアも多く見てきた。また、「愛の絶対性」を信じて、島田身障園生M氏は好きになった女性職員に恋文を書き、双方が傷つく結果に終わった。何も身障でなくても、キリスト教関係にはそのような恋愛挫折や離婚も多い。昔から考えてた事である。
  「隣人愛」だが、僕の出会った牧師たち含め、多くのクリスチャンたちが重大な事を二つ見落としている。一つは、その前に「心を尽くして、神を愛せよ」である。それを気が付かない人や、気が付いても判らない人ばかりである。イエスは「隣人愛」は二の次にしているわけである。判らない・判っても神をまともに愛せない人たちはどうなるのか。もう一つは、「己の如く」。どれだけ皆自分を愛しているのだろう。また、いくら自分を愛しても、死ぬ時は死ぬではないか。
   まともに神や自分を愛せない人たちはあえて隣人愛をしなくても良いと思うように僕はなった。大体、「愛する」は自力の事。僕にはムリだと悟ったと。無力だし、神も愛せなければ、聖書に照らしても僕は「悪人」になる。ならば、どうせ死ぬ事を世間にさらけ出すだけで良いと。そうしただけで、むしろ、悪人に対して「何か」が救いの手を差し伸べると。歎異抄では「阿弥陀」になっている者が。
   もう一つ。恋愛や結婚の核は愛だろうか。愛が欲しくて、人を好きになる・結婚するのだろうか。ノーだ。恋愛、そして、友人付き合いも「付き合いたい」という気持ち、結婚は「そばにいるだけで良い」が本音だと。僕自身、他人の愛が欲しいと思った事は一度もない。その面からも、愛の絶対性は僕は認めない。
  その他、コロナにどうしても今は目が向いてしまう。一応洗礼は受けたが、本当にそのような信仰があれば、「コロナか、キリストか」と問われて、キリストに心向くはずなのに、全然向かない。その面も考えてしまうわけだ。今までの信仰の薄さが現れ、僕なりの信仰が作られつつある所だと。

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