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2019年07月25日23:19

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政治家と預言者

再びうれしい質問があったのだが、それがまたきびしい質問で弱ってもいる。自分が宗教を政治にとって重要だと思っているのか、それとも危険だと思っているのか、という問いである。簡単に答えれば、重要であり、また危険たりうるとも考えている。

それが何を意味するか書きだすと長い話になるが、それより自分が受け容れてない立場を言った方が早いだろう。自分は宗教とは無知や精神錯誤などの産物で、科学的知識が普及するにつれて信じる人が少なくなっていくとは考えていない。よしんば○○教とか呼ばれるものがすべて途絶えたとしても、宗教的なものは残るにちがいない。だから、宗教なんかがあるから政治が悪くなると言うのは、空気があるから火事が起きると言うのに等しい無意味な発言であると考えているのである。

そうなると、名前の付いた宗教がなくなっても宗教的なものが残るとは、何の意ぞ、ということになると思うが、その一例としてわれわれの政治家の評価規準の話をしてみる。

人が政治家を評価する規準は時ところによって異なるが、暴力で政府を転覆して権力を掌握したり、他人の土地を蹂躙して征服するような指導者(シーザー、アレクサンダー大王などを考えてみよ)が偉大な政治家と称賛されるのは、いったいなぜであるか。

だが、古典期において、偉大な政治家とは、普通の人間には行いがたいことをなしとげた人物である。その際に、そのなされたことが道徳的に善であるか悪であるか、また後世の人びとにとってどのような結果をもたらしたかは、あまり重要でない。あまり善いことでなくても、それが非凡なことであればやはり偉業は偉業として評価される(チンギス・ハーン?)。

シーザーの場合を考えてみよう。彼はローマの共和制の息の根を止めて、帝政の創始者となった。それは共和主義者にとっては痛恨事であるし、後世の人にとってもあまりよろしくないことであったかもしれない。しかし、シーザーの為し遂げたことは非凡であり、彼は偉大な政治家であるということを否定する人は少ない。彼がこの非凡な事業を成し遂げることができたのは、強靭な意志なり、危険を恐れない勇気なり、苦境に負けない忍耐なりと、やはり非凡な徳なり能力を有していたからである。それが彼をして偉業を達成することを許したのである。

これは必ずしも後の歴史家による評価にはかぎらない。シーザー自身も、自分の行為がもたらすであろう後世への影響を考えていたようには思えない。ただ自分の置かれた状況のなかで、自分にとって最善と思われる行動をとったのであり、それが後世の人の目にどのように映るかなどということで、自分の行動を左右したりはしなかったであろう。

これが、現代的な政治家の場合であると、事情が大分異なる。レーニンやヒトラーを考えてみよう。他人には為し遂げがたいことを成し遂げたという意味では、彼らもシーザーやらアレクサンダー大王と比較できるかもしれない。少なくとも、ある面では彼らの敵や批判者よりはよほど傑出した人物であったと言えなくもない。

しかし、それをもって、われわれはレーニンやヒトラーを偉大な政治家であるとは評価しない。なぜなら、彼らの行為の産み出した結果によって多くの人が苦しんだ。この事実だけで彼らが偉大な政治家であったという評価を否定するに十分である。

そのかわり、ルーズベルトとかチャーチル(スターリンはちょっと脇に置いておいて)が偉大な政治家になったわけだが、それもまた彼ら自身の徳というよりも、たまたま戦争に勝利したので、歴史の正しい側に立ったという事情に負うところが大きい。そういう目で彼らの言動を見ると優れた徳のようなものも見つかるわけであるが、戦争の勝敗が逆になっていたらどうだか怪しい。

つまり、今日の政治家の評価は、彼らの為し遂げたことの困難さというよりも、道徳的な意味の方に重きが置かれる。しかしその善悪は、同時代人にとってというよりも、その歴史を遠い未来から眺める現在のわれわれにとっての善悪である。だから、その道徳的意味を決める規準は、かれらの為し遂げたことが人々にどのような結果をもたらしたかという点にかかっている。そのために予言能力がまた重視される。誤った結果をもたらすのは、時代の流れを読めていないから、または時代の潮流に逆らって行動しているからであると考えられるのである。

チャーチル自身が予言能力を政治家の重要な資質と考えている。しかし彼は同時に、予言はむずかしいことも認める。だから、事後的にこういうことが起きたと納得のいく説明をする能力も政治家の資質に挙げている。こうなってくると科学者と政治家の境界線が曖昧になってくる。それなら科学者に政治を任せればいいじゃないかという話になる。そして、科学者ほど偉大な政治家とかけ離れた存在もないのである。

シーザーやアレクサンダー大王の場合は、あえて運命に逆らってでも不可能を可能にするところに偉大さがある。レーニンやヒトラーは、時代を読み違えて、もしくは時代に逆らい、不可能であることをまるで可能のように考え、その誤った考えをもって人を誘惑したところに邪悪さがある。アレクサンダー大王やシーザーの行為に精神病理的なものを見出す人は少ないが、レーニンやヒトラーを動かしたのは狂気でなければ病気であると思われがちである。この評価のちがいはどこから出てくるのか。

現在の状況を歴史のなかに位置づけ、来るべき未来を正しく予想し、救いに向って人々を導くのは、元来、政治家ではなく預言者の役割である。実際、古くからキリスト教徒たちはこうした観点から政治家を評価してきた。ローマの歴代皇帝はキリスト教を保護したか迫害したかという観点から評価されたが、それはキリスト教的歴史において彼らが善の側、悪の側のいずれに立っているかという規準が用いられたのである。そして、善とは人類の最終目標達成に向けて掉さす勢力であり、悪とはそれに水を差す勢力のことである。

驚くなかれ、近代のイデオロギー政治においても、このキリスト教徒の皇帝評価と同様の観点が採用されている。政治家のイデオロギー上の立場が、時代の流れを正しく読みとっているかどうかの指標としてしばしば用いられるのである。反動にすぎるのか、急進にすぎるかは別として、このテストに落第したものは、どのような徳を持っていようが偉大な政治家ではありえない。人を惑わす偽預言者は黙殺すべきであり、黙殺できなくなったらあちらを黙らせるだけである。

例えば、安倍首相やトランプ大統領のようなイデオロギー色の強い政治家に対する評価は好き嫌いが極端に別れる。いや、単なる好悪の問題ではなく、善悪、つまり道徳的な次元で評価されやすい。預言者はその言葉を信じる者にとっては神の使徒であるし、信じない者にとっては狂人か詐欺師か悪魔であるわけだから、それもむべなるかなである。

さらに悪いことに、指導者自身がこの信徒たちの評価をあてにして行動するようになっている。政治家の発言が預言者めいたものになってきているのも偶然ではない。そういうわけで、今日の政治は、かつて宗派間の争いめいたものになってきているのであるが、自分が無宗教であると頑なに信じる人にかぎって、この類似性に気づかない。

つまり、無宗教であるはずのわれわれは、政治家に対してかつて預言者が果たしたような役割を期待するようになっている。政治から宗教を追放したはずが、いつのころからかまた宗教的なものが裏口から政治に持ち込まれて、気づかないうちに政治に影響を及ぼしている。退場したはずの預言者が、ぼくらの理想の政治家になって帰ってきている。そういうことになっていないだろうか。

この例が妥当なものであるかどうかは別として、自分には、近代の世俗的な政治秩序の基底には宗教的なものがあるように見える。宗教とは政治から疎外された政治自身であるというのも、妄想であると簡単に言えない面があると思う。もしそうであるなら、多くの人がそれに無自覚であることはよいことではない。政治への宗教の関わりかたを判断する前に、まずその実態を知る必要がある。だから、政治と宗教の関係に並々ならぬ関心を抱いているのである。

無責任といえば無責任な話であるが、知らないことを探究するのであるから、始めから結論を予測して手加減するのはちとむずかしい。幸い自分の預言などに耳を貸すものはそう多くないから、アレクサンダー大王やシーザーのように自分の勇気や忍耐力を信じて猛進しても、そう大した影響を後世には及ぼさないだろうと安心している面もあるにはある。厳しく吟味批判してもらえればありがたい。
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