自分は大学三年の夏休みを利用して、ブラジルを旅行したことがある。国内線が10回乗り放題という周遊券を買って、サンパウロに住んでいた親戚の家を拠点に、北から南まで首都と地方都市を回ったのである。生まれて初めての海外旅行であるだけでなく、自分にとってはいわゆる「自分探し」の旅めいたものであって、人生の進路にも大きな影響を及ぼすことになった。
サルヴァドールであったかレシーフェであったかよく覚えていないのだが、大きな広場で人混みのなかに紛れ込んでしまったことがあった。祭りか何かであったのか、ものすごい人出であり、文字通り立錐の余地もないような混雑であった。満員電車のように四方八方から知らない人に小突き回された異邦人の若造は少しパニック状態になり、何とか人混みから抜け出そうとあがいた。
必死の思いで人をかき分けて行くと、ぱっと開けた空間に出た。ほっとしたのであるが、ふと見下ろすと、何やらそこにある。ぎょっとしてよく見てみると、それは車輪をつけた木箱に中に座って、じっと自分を見つめている人間である。どうやら足が二本ともない。そこは人々がその男を避けるがためにできた空間なのであった。
自分は文字通り蛇に睨まれた蛙のように凍り付いた。二人は互いの顔をまじまじと見つめていた。どれくらい時間がたったのか、正気に戻った私は恐怖に襲われて、施しもせずにまた人混みのなかへと逃げ込んだ。だが再び大勢の中に埋没することはできなかった。その後しばらく、その男の顔の記憶につきまとわれた。
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レヴィナスという哲学者は、日本では内田樹先生に紹介されて妙な人気があるらしいから、自分などよりよほどよく知っている人がいると思う。自分は一冊しか読んだことがないし、正直なところ何が言いたいのかチンプンカンプンであった。しかし、他者は顔として現われるというところを読んだとき思い出したのは、このブラジルでの経験なのであった。
レヴィナスは、自我とは何よりも他者に開かれたものであるとした。これは、自我を他者から孤立した存在とする近代的自我観への批判でもあった。近代的自我は、まず自分自身ではないものを他者として切り離す。そして他者を対象化する。つまり「わたし」は自分を主体、他者を対象として見、その関係は「AがBを○○する」という関係となる。これをレヴィナスは対格（日本語であれば「〜を」という助詞で表される）の関係と呼ぶ。
レヴィナスは、これに対して呼格もしくは与格で結ばれる他者との関係を対置させる。呼格とは「汝よ」というときの「〜よ」で、与格とは「〜に」で表される関係である。日本語で呼びかけに使う「あなた」とか「君」が呼格、「AがBに〇〇する」というのが与格であり、働きかけの方向性を示している。たとえば「彼は僕に感謝した」とか「彼は僕に菓子折りを持ってきた」というときの「僕」は「彼」の行為の対格ではなく与格である。この二つの例文では、「彼」と「僕」には非対称な主体・対象関係はない。
つまり、レヴィナスにとって、他者とはまずは主体がなんらかの操作の対象とするものではなく、「わたし」と対等な立場で向き合うものなのである。
この他者は自らは語ることはない。それは「顔」として現われる。その顔は沈黙したままただ見つめている。そこには何のコミュニケーションも成り立つ余地がなさそうである。しかし、「わたし」は顔が自分に問いかけているように感じ、またその問いかけに答える義務を課しているように感じるのである。
あのサルヴァドールかレシーフェの乞食が自分に何か言ったのかどうか覚えていない。しかし、たとえ彼が口を聞いたとしても、彼の存在が私にとって何を意味するかを語ることはできなかったであろう。また、自分の応答したとしても、彼は理解することはなかったであろう。
それでも、「顔」に呼びかけられ、それに答える責任を感じた自分は、こう応答した。彼の存在が自分に問いかけているのはこうだ。豊かな社会に生まれ、親の脛をかじって大学まで行きながら、世の中に倦んでいるお前は、いったい何者であるのか。ブラジルから帰って、自分はラテンアメリカの開発問題を勉強することに決めて、旅行のために覚えたポルトガル語に加えてスペイン語をはじめた。そして開発経済学とかラテンアメリカの経済史なんかを読み始めた。
今から考えるとこれ以上ないくらい安直な応答なのだが、それが縁で大学院まで行くことになって今の自分がいるから、「顔」が訪れてくれたことには感謝しないとならない。
自分はレヴィナスを勉強してないから、これが正しい解釈なのかどうかは保証しかねる。だが、正しいとすれば、レヴィナスはしっかり向き合う価値がある思想家であると思う。
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マス・コミュニケーション社会に生きるわれわれは、「汝よ」としょっちゅう呼びかけられている。なのに、自分たちは聞いているようで聞いていないようなところがある。新聞を開いても、インターネットを閲覧しても、他者が「顔」として来臨することはあまりない。だから、そこに含まれている呼びかけに応答しようという責任を感じることは少ない。情報が自由に飛び交う開かれた社会で、ぼくらの自我は外に対して閉じられている。これはなぜであろうか。
一つには、マス・コミュニケーションは紋切り型の内容になりやすい。役所での対応と同じで、だれに対しても同じことを言うのであり、女の子の手招きなんかと比べてもどうも親身でないと感じやすい。しかし、読者数や視聴者数を増やすには、紋切り型を繰り返すに越したことはない。だから、政治家や自称論客たちの繰り返す発言がいかに過激に見えても、繰り返されるという事実だけでそれはやはり統計の法則に従順な紋切り型に違いない。
しかし、思うに、これに関連したもう一つの理由は、マス・コミュニケーションというのは誰かに呼びかけるという形式をとりながらも、実質は呼びかけられる者を対象として扱っていることが多いからである。またレヴィナスの言葉を借りると、マス・コミュニケーションにおけるメッセージの伝達者と受信者の関係は、呼格でもなく、与格でもなく、「〜を」という対格の関係に堕してしまうことが多い。有り体に言ってしまえば、これは企業的計算の問題であり、「彼らは投資から最大の利益を得るためににわれわれ�爐鬮畫犧遒垢襦廚箸いΥ愀犬覆里任△襦�
広告やプロパガンダなどは露骨にそうであるが、「貧しい子供たちに救いの手を」というような真っ当なメッセージでもそれがありうる。それはほかでもない「そこのあなた」�爐豊畍討咾�けているように見える。しかし、現実には、呼びかけられているのは不特定多数の人びとであり、特定の「あなた」である必要はない。広告主の念頭には特定の募金額という目標があって、「あなた」はただ小切手を切らせる対象にしかすぎない。ということは、彼らはあなた�爐豊畍討咾�けているのではなく、あなた�爐鬮瓩△詭榲�のために利用しようとする立場にあるともいえる。
多くの人に届けようという努力がメッセージ自体の価値を犠牲にしてしまい、伝達者と受信者の関係を操作する者とされる者に転化してしまう。これは無媒介の対人関係でもありうる話であるが、その危険性がマス・コミュニケーションでは余計に大きい。というよりも、そうした要素が全くないマス・コミュニケーションはありえないだろう。
自分が書いている文章などにも同じことが言える。一方では、不特定多数とは言え、自分は読んでくれる人なら誰にでも直接に話しかけるつもりで書いている。自分は団地の公園で一人でつぶやいているつもりは毛頭なくて、今これを読んでいるあなた�爐豊畍�かって話しているのである。
だが、他方で、できるだけ多くの人に読ませたいという願望もある。だから、単純化したり誇張したり、わざと挑発的な物言いもする。題名なんかも内容との一致より人目を惹くようなものを選んだりするから、無視されるよりは誤解された方がよいと考えている。内容については自分でも嘘だと思っていることを言ったことはないとは思うが、言わなくてもよいことまで言うという点で知的に誠実であるかどうか怪しいところもある。そうするときに、自分はあなた�爐豊疣辰靴�けているのではなく、あなた�爐鬮畫犧遒梁仂櫃箸靴動靴辰討い襦�
だから、呼びかけられた方には疑うだけの十分な理由がある。それを聞いて聞かないふりをしても咎められるいわれはない。咎められても、「え、僕に呼びかけていたんですか」としらばっくれることも可能であるし、「どうしてあたなの言うことを信じなければならんのですか」と問い返さなくてはならない。それが他者から目をそらして自分の自我に閉じこもる口実を与える。
技術の発達で自分の五官の届く範囲をはるかに超えて世界を見渡せるようになった現代において、われわれの他者の存在に対する感受性は低下してはいなくとも、あまり向上もしてなさそうだ。マス・メディアを通して伝達されるメッセージの量が増大すればするほど、そうしたメッセージに対する懐疑的、冷笑的な態度を助長し、その価値を下げるという逆説的な結果を生む。毎日のように垂れ流されるメッセージは容易に右の耳から左の耳へと抜けていって、真面目に応答される前にどしどし陳腐になっていく。
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