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2016年09月05日09:55

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人生意気に感ず「ハンセン楽泉園。熱い命は息づく。145歳なんて」

◇9月2日(金)、早朝家を出て、草津へ向かった。栗生楽泉園の取材が目的。今、小説「癩の嵐」を書いている。楽泉園には日本の癩の歴史が凝縮されて残っている。それは、草津温泉湯之沢部落の歴史と深く関わっている。私の小説は、死の川と言われた湯川のほとりに存在した癩の人々の集落が一つの舞台になっている。軍国主義の靴音が日増しに高くなる中で、ハンセン病(癩)を閉じ込めようという空気が高まっていた。聖戦に向かうとき、国辱として社会から排除する空気もあった。
 一族から癩が出ると世間の目から隠すのが常だった。患者は人の目を逃れ、人間としての価値を認められないで人生を終る。そういう世の風潮の中で、湯川の流れに沿って出来た湯之沢部落は違っていた。人々は助け合い、自治の組織を作って、人間らしく生きようとした。イギリスの宣教師、コンウォール・リー女史は、イギリスの貴族の出で、巨万の私財を投げ打って、この部落で救癩事業に当たった。
 この湯之沢部落も時代の流れに抗し切れず、解散に追い込まれる時が来た。その受け皿は、国策によって設けられた栗生楽泉園であった。ここには全国から多くの患者が収容されたが、湯之沢部落の人たちは「下地区」と呼ばれた地域で生活した。この地域は「自由地区」とも呼ばれ、癩の収容地としては全く特別の存在であった。しかし、この地域だけを見ては癩収容の実態は分からない。広大な楽泉園の一画に恐怖の癩対策を象徴する「重監房施設」があった。かつてのものは取り壊され、今は復元されたものが記念館として残っている。
 私は、福祉課に案内されて「下地区」、かつて「自由地区」と呼ばれた地域を見た。今はわずか4軒、3世帯が残っているのみ。この地区の住人T老人に会って話すことが出来た。92歳で驚く程明るく元気だった。昔、満州の牡丹江にいたことがあると語った。家の前に軽トラがあり、聞いたら運転するのだそうだ。暗い過去をどう乗り越えてきたのか。今回、私は通りすがりの客である。次回、お茶を飲みながら話そうと言ってくれた。楽しみだ。
◇まさか。ジャワ島で145歳の男性が発見され、政府発行の証明書もあるとか。インドネシアのテレビが報じた。望みは死ぬことだとか。眉つばものと思うが、人間は何歳まで生きられるのか、長く生きて幸せ感はどうなるのか、そんな点が気になる。いずれ分かるだろう。(読者に感謝)

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