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2020年04月26日21:50

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キリスト教思想史〈1〉キリスト教の成立からカルケドン公会議まで フスト ゴンサレス 新教出版社 2010年05月25日

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p.70
 ローマのクレメンスについては、ローマの執政官(コンスル)であったティトゥス・フラウィウス・クレメンスと同一人物であることを証明しようとする試みもなされてきた。フラウィウス・クレメンスは「無神論」すなわち神々を礼拝せず、ユダヤ人の習慣に改宗したという罪状で、親族のドミティアヌス帝によって死刑に処せられた。フラウィウス・クレメンスがキリスト教徒であった可能性は高い(彼の死については、ディオ・カッシウス、Hist rom. 67.14およびスエトニウスDe vita Caes. 8.15を見よ)。しかし、このクレメンスがローマのクレメンスと同一人物であった可能性は極めて低い。…
…エイレナイオス(Adv. Haer. 3.3.3)によれば、クレメンスはペトロ後、第三代ローマの司教である。エウセビオス(HE 3.4, 15)とヒエロニムス(De viris illus. 15)もエイレナイオスと一致する。聖アウグスティヌス(Ep.53.2)、「使徒教憲」(7.46)および他のいくつかの資料(リベリウス表、オプタトゥス、De schis. Donat. 2.3)はペトロに次ぐ第二代とする。テルトゥリアヌス(De praes. Haer. 32)と、偽クレメンス文書(「二〇の説教集」の序文「クレメンスからヤコブへの書簡」、ANF.8:218:22)はクレメンスをペトロの直接の後継者とし、この立場は著述家によって受け継がれている(ヒエロニムス、Adv.Iovin. 1.12,In Isaiam 52.13)。この食い違いを説明しようとする試みは古代からおこなわれてきた。エピファニオスによれば、クレメンスは二回ローマ司教に就任したことが原因である(Haer., 27.6)。現代の研究者たちの中には、一世紀ローマは未だ単独監督制となっていなかったので、一人の司教ではなく司教団が存在したと考える者もいる。この説によれば、単独監督制を前提として考えるようになっていた後の著述家たちが、司教の一覧表を継承の順序として作成したことが、クレメンスを司教継承の中で第何代と位置づけるかをめぐる混乱の原因である(E.Kohlmeyer, "Zur Ideologie des altesten Papsttums: Sukzession und Tradition, "ThSK, 103[1931], 230-42; Stanley Lawrence Greenslade, "Scripture and OTher Doctrinal Norms in Early Theories of the Ministry," JTS, 44[1943], 162-76)。
p.83
たとえば中世には、イグナティオスと聖母マリアの関連を証言する内容の四書簡が生み出された。これらの四通の内、二通はイグナティオスから聖ヨハネに宛てられ、一つはイグナティオスからマリアへ、もう一通はマリアからイグナティオスへの書簡である。…学者たちは概ねrecensio breviorを真正な手紙とみなしている。Recensio Iongiorは大幅に挿入が加えられた七つの真正な手紙と、六通の偽書(カッソポロンのマリアからイグナティオスへ、イグナティオスからマリアへ、タルソスのキリスト者へ、フィリピのキリスト者へ、アンティオキアのキリスト者へ、ヘロンへ)から成る。Recensio brevissimaは真正な手紙三通の要約である。
p.91
 確かなことは、イグナティオスの神学が、使徒パウロよりも第四福音書に近いことである。…ヒエロニムスによれば、イグナティウスはポリュカルポスおよびパピアスと同様に、エフェソでヨハネの弟子であったというが、他の著述家たちがこのことに触れていないので、信憑性は乏しい。
p.101
この幻では、教会が一人の女性の姿で現れ、建設途上の大きな塔を見せる。
p.103
 ヘルマスは救い主を「神の子」と呼び、聖霊と同一視している。先在の聖霊が救い主に宿り、救い主は神の意志に完全に従順であったので、彼は聖霊の共働者とされた。
p.114
キリスト教徒は近親相姦を犯しているとか、子供の肉を食べる、彼らの祭司の性器を崇拝している、彼らの神は十字架につけられたロバであるなどといったたぐいの噂が広められた。
p.117
神は世界の第一動者であり、万物を人類のために創造した。したがって、神を畏れる者は誰でも、他の人を敬わねばならない。神は名を持たず、否定語によってしか表現することはできない。神には初めも終わりもなく、構成要素もない。
p.118
また、アリスティデスには鮮明な終末的待望がみられる。…その時まで世界が保たれるのは、ひとえにキリスト教徒の祈りのゆえである。
p.121
 彼ら古代の「キリスト教徒」は、ロゴスを「部分的に」しか知らなかった。彼らはロゴスが開示した真理しか知らず、ロゴスを観ることはなかった。しかし、このロゴスが受肉して世に来たので、キリスト教徒はロゴスの「全体」を知ることができる。…種子的ロゴスは個々の理性が参与する宇宙理性であり、個々人を発達させるためのロゴスの種子として作用する。それに対して、ユスティノスによると、ロゴスの種子は普遍的でも自然的でもなく、種子的ロゴスによる直接的な個々の行為の結果なのである。
p.122
しかも、それらは人間の精神が完成されるのに必要な基礎情報ではなく、ロゴスだけが完成へと導くことのできる照明である。だからこそユスティノスは、むしろ非哲学的な「ロゴスの部分」という表現を用いたのであった。…プラトンが持っていたロゴスの部分は、プラトンの精神によって完成されることはあり得ない。それはロゴスによってのみ可能なのである。哲学は真理の一部しか所有していない。それどころか、哲学だけでは部分的な真理と、真理が含まれている多くの偽りとを区別することさえできないのである。
p.123
たとえば、イスラエル人の家に注がれた過越の子羊の血は、キリストの「予型」である。
p.124
後者の場合、旧約聖書の歴史性は失われ、新しい神秘的意味に取って代わられることになる。旧約聖書を字義通りに解釈することを邪悪な天使の欺きによるわざと見なした偽バルナバなどは、その極端な例と言えよう。(47)…
…神は、父という名以外には呼び名のない絶対的な超越者である。この世界と関わりを持つために、神は創造の仲保者としての役割を果たすためのロゴスを生んだ。旧約聖書において神が様々な仕方で出現するのは、父そのものの権限ではなく、神の仲保者にして啓示者であるロゴスのことである。なぜなら、「最もわずかな知性しか持たない者であっても、万物の創造主にして父である神が、天より上の事々をすべて放置して、地上の狭い一角に見える姿で現れるなどと、敢えて主張しないであろう」。
47 ただし、既に述べた通り、偽バルナバは予型論的解釈も用いている。
p.125
事実、ユスティノスはロゴスを「他の神」とさえ呼んでいる。…「それはあたかも、地上における太陽の光が目に見えず、天の太陽と切り離すことができないと言うのと同じである」。父と子の関係を考察するにあたり、ユスティノスはユダヤ教の天使論と中期プラトン主義という二つの思想的源泉を結び合わせたと見ることができよう。前者からは神の唯一性と、ロゴスを神の属性もしくは「力」とみなす考え方を受け継ぎ、後者からは神の超越性と、絶対的超越者である至高の神と世界を橋渡しするための従属的な神としてのロゴス理解を受け継いだ。
p.127
魂は死ぬべき存在であり、だからこそキリスト教徒は、普遍的な不死性といったことではなく、死者からの復活に望みを置くのである。
62 神の計画、配剤、あるいは神のοικονομιαは、ユスティノスがパウロから受け継いだ用語であり、彼の思想の根底となっていた。この考えは弟子のタティアノスや、後のエイレナイオス、テルトゥリアヌスなどにも受け継がれている。
p.129
エンクラティス派は結婚を禁じ、おそらくワインを飲むこともしなかった。上述の著述家たちの一部は、エンクラティス派のキリスト論と神論がウァレンティノス派とマルキオン派に近かったと証言している(この二派については次章を見よ)。
p.130
一つの光から別の光が分かれても、最初の光から何も失われないのと同様な仕方で、ロゴスは神から生じる。このロゴスが、何らかの先立つ物質を用いることなく、世界を創造したのである。初めには神以外なにも存在してはいないからである。
p.134
 「死者の復活について」でアテナゴラスは、身体の復活が可能であることを、それが神の性質に適い、かつ人間の性質が必要とするという二点から議論している。死者の復活と霊魂の不死性はなんら矛盾することはない。それどころか、後者は前者を必要とする。人間は魂が身体と結ばれてこそ存在するからである。
p.135
実際、テオフィロスは「三つ」(trinity)という用語を用いた最初のキリスト教徒である。ユスティノス、タティアノス、アテナゴラスと同様に、テオフィロスにとっても三位一体の第二位格はロゴスである。
p.136
テオフィロスはキリスト教のロゴスの教理に、神の精神の内に常に存在している内在のロゴスと、万物の創造の前に生み出された発声されたロゴスという、フィロンが既におこなっていた区別を導入した。後者の意味においてロゴスを「すべてのものが造られる前に生まれた方」と呼ぶことができる。
p.141
いずれにしても、キリスト教徒は、異教徒にキリスト教信仰への理解を求めるために、キリスト教思想を組織的に提示する必要に迫られたのである。…
…たとえば、ユスティノスはロゴスが「別の神」であると考えるのに対して、メリトンは父と子を同一視する傾向にある。テオフィロスは両者の中間に位置し、父の精神の内に永遠に存在する内的ロゴスと、創造の手段であり後に受肉においてイエス・キリストとなった発生されたもしくは表現されたロゴスを区別している。
p.146
 エビオン派によれば、世界には善の原理と悪の原理が存在しており、悪の原理がこの世の支配者であるのに対して、善の原理は来るべき世を支配する。その間、善の原理はこの世に対して、預言者の内に受肉することによって自らを現すのである。…しかしアダム以来、善の預言者の受肉には、必ず悪の原理に仕える対抗者が伴った。カイン、イシュマエル、バプテスマのヨハネなどは、悪の原理の出現に他ならず、それはまた、女性原理でもある。
 この思想体系によれば、イエスとは男性原理、すなわち善の原理の預言者だということになる。したがって、イエスは神が自らの意志を表すために選んだ存在ではあっても、ただの人間にすぎない。イエスがその使命を果たすために必要な上からの力を授けられたのは、バプテスマを受けた時のことであって、処女懐胎は否定された。イエスの使命は人々を救うことではなく、男性原理によって与えられた律法への従順へと人々を招くことにあった。そもそも人を救うことは、人間にすぎないイエスの能力を超えているのである。…旧約の律法に記されている犠牲についての記述は神によって与えられたものではなく、女性原理の影響を受けて書き加えられたものとみなしたからである。
p.147
ただし、彼らの言う成就とは、イエスが律法を成し遂げたのでもはや律法に拘束されることがなくなった、という意味ではない。…イエスが世の人々のために律法を成就したと教えたのはパウロであった。エビオン派によれば、パウロがそのように教えたのは当然であった。彼は女性原理に仕える僕の一人だったからである。
p.148
エルカイによると、その教えは身長九六マイル(約一五四キロメートル)の天使から受けた啓示に基づいたものであり、その天使とは神の御子であった。この天使の隣りには同じような身長を持つ女性の天使がいて、それは聖霊であった。
…それらの記述から推測されるエルカイ主義は、律法の遵守と割礼を強調し、イエスを預言者のひとりとみなすエビオン派の一形態で、二元論的な傾向を持ち、占星術と数秘学的瞑想を取り入れたものと思われる。
p.151
 グノーシス主義とは救いの教理である。…グノーシス思想によると、救いとは、物質と一体化してその虜となっている霊の解放である。
p.154
 第三に、グノーシス主義の二元論がキリスト論に適用されると、破滅的な結果をもたらした。…そこで、グノーシス主義者は、「〜のように見える」「らしく見える」を意味するギリシア語のδοκεωに由来する仮現論(Docetism)として知られるキリスト論を教理とするようになった。
p.155
 ユスティノスによって最初に言及されている古代の伝承によると、グノーシス主義の創始者はシモン・マゴスである。…彼は自ら神と称し、あるいは神の力を持つと主張し、彼が同伴していた女性ヘレナを聖霊と称した。使徒言行録によれば、シモンはキリスト教の洗礼を受けている。
p.156
 シモンの弟子とされるメナンドロスについては、よく知られていないが、キリスト教的というよりもユダヤ教グノーシス主義であろう。古代の異端論駁者たちによると、メナンドロスは彼の師同様、魔術を駆使した。彼は自らを天的な存在から使者として遣わされた救い主だと称し、世界を創造して人類を虜にしている天使たちに打ち勝つための魔術的な手順を教えるために来たと主張した。
 キリスト教の福音の再解釈を試みた最初のグノーシス主義者は、おそらくケリントスである。ケリントスは一世紀末にエフェソで活躍した。その思想はグノーシス主義全般の特徴である派生的二元論の立場を取っている。彼はまたイエスとキリストを区別した。イエスがマリアとヨセフの子である人間なのに対して、キリストは、イエスの洗礼の時に彼に降った神的存在である。したがって、ケリントスは厳密な意味での二元論者ではない。彼は人間性と神性の結合にかかわる問題を、両者を徹底して分類して分離することによって解決しようとしたのである。キリストが人間に対する使者としての役割を果たし終えた時、キリストはイエスを放棄したので、苦難を受けて死に、死者の中から復活したのはイエスである。キリスト自身は苦難を受けることがあり得ないからである。…新約聖書のヨハネの第一の手紙は、もしかするとケリントスに対する論駁である可能性もある。
p.157
 サトルニロスまたはサトルニノスはメナンドロスの弟子であった。彼によると世界は七人の天使によって造られ、その中の一人がユダヤ人の神であった。天使たちは至高の神の内にあるイメージを形作ろうとしたが失敗して、人間を造り出した。それを見て憐れに思った至高の神は、天使たちによって造られた者に永遠の本質の一部を授け、後に、人間を物質の虜から解放する手段を教えるためにキリストを遣わした。その手段で特に重要なのは、性的禁欲と特殊な食物規定であった。
 カルポクラテス派の創始者は、紀元一三〇年頃にアレクサンドリアで活動したカルポクラテスである。キリスト教が広まってからの最初の数世紀にアレクサンドリアで栄えていた哲学学派は新プラトン主義であり、アレクサンドリアのユダヤ教徒キリスト教も強い影響を受けたことは、すでに述べたとおりである。カルポクラテス派も同様で、グノーシス的混淆主義によって、キリスト教の要素だけでなく、プラトン主義に起源を持つ諸要素も取り入れた。彼らによると、世界は父よりも劣る精霊によって造られたのであり、人間の励行は誕生前に存在しており、その記憶を取り戻すことによって救いが達成される。その記憶を取り戻さない限り、いつまでも死と再生が繰り返されることになる。イエスはマリアとヨセフから生まれた人間であるが、完全な人間であって、前存在の記憶を完全な明確さをもって保ち、忘れられていた永遠の実在を宣べ伝えたのだと主張した。
 アレクサンドリアはまた、使徒マッテヤの弟子だと主張するバシレイデスが、紀元一二〇〜一四〇年頃にかけて隆盛を誇った都市でもある。
33 カルポクラテスと息子のエピファニオスの物語はあまりに伝説的で、実在の人物かどうかさえ疑わしい。…おそらく、カルポクラテス派という呼称は創始者の名前に由来するのではなく、ハルポクラテスとして崇拝されていたエジプトの神ホルス・カルポクラテスに由来すると思われる。
p.158
バシレイデスによると、すべての天的な実体は父に起源を持っている。父から三六五にのぼる天の階層が発出した。この世界を創造したのは、もっとも低い天の階層に住む天使たちであり、そのひとりが旧約聖書の神である。旧約の神は一つの民を選んで世界全体を支配しようとしたが、他の天使たちがそれを妨げた。天使たちは父から、三六四の天の階層で隔てられているため、父の性質について無知であり、彼らの創造物も極めて不完全であった。しかし、不完全であるとしても、神の霊の一部が含まれていて、人間の肉体に囚われている。その解放のために、父はその独り子を遣わした。子は人になったのではなく、人になったように見えたにすぎない。子の使命は、眠り込んでしまっている霊魂に、天的実在の記憶を呼び起こすことである。そのためには受難は不必要である。したがって、十字架につけられたのはイエスではなかった。クレネ人シモンが苦難を受けて死んだのである。
p.159
万物の永遠の原理は、理解することも計ることもできない「深淵」(Bythos)であり、その内に「沈黙」(Sige)が存在する。深淵は、心またはヌース(Nous)と真理(Aletheia)を生み出した。…そして、心(男性)は真理(女性)と結ばれて、言葉(Logos)と命(Zoe)の起源となった。次いでそこから人間(Anthropos)と教会(Ekklesia)が生み出されて、八要素が成立した。…最後の二組のアイオーンがそれぞれ、深淵に敬意を表して増殖し、言葉と命から一〇のアイオーン、人間と教会から一二、合わせて二二のアイオーンが生じた。こうしてプレーローマあるいは充満が完成し、一五組三〇のアイオーンが成立した。最後のアイオーンである知恵(Sophia)が、物語世界の起源である。知恵は自らの限界を超えて、ヌースだけに可能な、深淵についての知識を手に入れようとした。そのために知恵は激しい熱情を抱き、彼女の相方を抜きにして新しい存在を生み出したが、この新しい存在はその成り立ちゆえに「流産」であり、プレーローマに混乱をもたらした。最後に深淵は、プレーローマに秩序を回復するため、キリストと聖霊という二つの新しいアイオーンを造ることにした。こうして秩序は回復されたものの、知恵の情熱から生み出されたアカモートが存在していた。アカモートはプレーローマから放逐され、十字架あるいは境界によって外にしめだされていた。知恵の堕落によって生じたアカーモートを助けることを望んだアイオーンたちは、新しいアイオーンであるイエスを造った。このイエスが物質となってアカーモートを情熱から解き放ち、情熱が物質となった。
p.160
イエスはアカーモートに天からのグノーシスを与え、その光が霊を生み出す。世界には、物質、魂、霊という、これら三つの要素が存在している。しかし、創始者は霊の存在を知らない。この世界の創造者は、物質と魂に形を与えるために知恵によって形作られたデミウルゴスである。デミウルゴスによって造られた人々の内に霊の種を入れたのは、知恵自身である。これらの種は、キリストが人間イエスとなって現われ、救出してくれる時まで、発展し、備えをしてきた。このイエスは、同名のアイオーンと混同してはならない。キリストはイエスが洗礼を受けたとき、彼の上に降り、苦難の前にイエスから去った。キリストの使命はグノーシスをもたらすことであった。グノーシスを通して、本来はプレーローマに属するはずの人間の霊が、あるべき場所に戻るのである。
p.161
(1)異端論駁家たちは信頼性が乏しい。(2)「真理の福音書」はウァレンティノスが正統主義協会と決別する以前に書かれたものであり、したがって、まだ彼の思想体系は完全な成熟に至ってはいなかった。(3)「真理の福音書」も異端論駁家たちも、共に信頼し得る資料であり、両者間の差異は目的の違いに起因する。第三の説がもっとも適切であろう。異端論駁家たちは、ウァレンティノス派の教えの信頼性を貶めるために、グノーシス的思索のもっとも信じ難い箇所を選んで議論した。それに対して「真理の福音書」は、グノーシス主義がもっとも関心を抱き、また人々を引きつける魅力ともなっていた、救済の問題に関心を向けているのである。しかも、「真理の福音書」には、異端論駁家たちの記述を通してしか理解することのできない、宇宙の生成を暗示する記述がある。
p.163
物質世界においては法と正義が支配する。それに対して、最も罪深い者をさえ赦す愛の神が示すキリスト教の福音の中心は、恵みである。したがって、福音は、世界を支配する神とはまったく違う、「他の」「異なる神」に属する。
 ユダヤ人の礼拝する神が、この世界を支配する神である。万物を創造し、「それを見て、良し」とし、血の犠牲を要求し、人々を戦いへと駆り立て、民全体を皆殺しにするよう命じるのは、この神である。「わたしはねたむ神であり、父の罪を子に、三代、四代まで問う」(出エジプト二〇・五)という言葉が、この神をもっともよく言い表している。
 報復の神よりもはるかな高みに、別の「知られていない神」が存在する。愛である神は世界とは関わりのない、「未知の神」である。
p.164
創造神が義であり、怒りやすく好戦的であるのに対して、至高の神は愛であり、平和的で限りなく善である。マルキオンは最初、創造主を悪の神と考えていたが、後に、おそらくグノーシス主義者ケルドンの影響を受けて、創造主を義の神と表現するようになったと思われる。このように、マルキオンの場合、善と悪というよりも、愛と義が対比された。

 グノーシス主義がマルキオンの神学に与えたもう一つの影響は、マルキオンがこの世界を至高の神が支配する領域の外に位置づけたことである。
p.165
そこで、マルキオンは最初の新約聖書正典を編纂した。マルキオンの教理はこれらの聖書正典文書の研究に基づいたものであり、彼は自らを預言者と称したり、秘密の知識の源を所有していると主張したりしなかった。彼はキリスト教聖書の真の解釈者であろうとしたのである。
p.166
グノーシス主義と同じく、マルキオンもキリストが真の人間になったことを否定した。…もし救い主が赤ん坊として生まれたのだとしたら、救い主は創造主の支配の下に置かれたことになり、それは福音の革新的な新しさを否定することに通じる。そこでマルキオンは、キリストが皇帝ティベリウスの時代に、完全な大人として現れたと主張したのである。

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■ローマ教皇が復活祭のミサ「命を救うため巨額費やす時」
(朝日新聞デジタル - 04月13日 10:21)
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 世界に約13億人の信者を抱えるローマ・カトリック教会のトップ、フランシスコ教皇が12日、バチカンのサンピエトロ大聖堂で「復活祭(イースター)」のミサを行い、全世界に向けたメッセージを発表した。新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、ミサは少人数で開かれ、テレビやインターネットで中継された。


 フランシスコ教皇は、新型コロナウイルスによって「人々の生活が一変し、多くの人が不確実な将来と今ある危機を心配している」と指摘。各国の政治指導者に対し「誰もが尊厳ある生活を送れるよう行動する」よう呼びかけた。


 シリアやウクライナなど紛争や対立が起きている国や地域を挙げ、「今は武器をつくるのではなく、命を救うために巨額を費やす時だ」とも強調した。「一つの家族となって支え合うことが、これまでになく緊急に求められている。『無関心』や『分断』といった言葉を永遠に禁止したい」と訴えた。(ローマ=河原田慎一)


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