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2020年04月28日22:32

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キリスト教思想史〈1〉キリスト教の成立からカルケドン公会議まで フスト ゴンサレス 新教出版社 2010年05月25日

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p.167
彼らの預言活動が独特であったのは、聖霊によって新しい啓示が与えられたことにより、新しい恵みの時代が始まったと主張したことである。
52 モンタノスが自らを「パラクレートス」呼んだことは、文字通りの意味ではなく神の名による神託とみなすべきであろう。…モンタノス主義のおもな貢献は、聖霊への注目を高めたことにある。
p.168
教会は一般に、殉教は積極的に願い求めるべきではなく、信仰を棄てることなしに殉教を避けることができるなら、そのようにすべきであるという見解を取っていたが、モンタノス主義はそのような見解に反対した。
p.169
後にいわゆるモナルキア主義者と呼ばれるようになった最初の人々は、グノーシス主義の言う複数のアイオーンや、マルキオンの主張する二つの神から、「モナルキア」すなわち神の単一性を擁護するためにこの用語を用いた。初期のモナルキア主義の一つに、ロゴス論に反対したことからアロギ派(「アロゴイ」)と呼ばれる一派がある。彼らはケリントスのロゴス論を、神の内に複数の実体が存在すると主張するグノーシス主義的思索の根源だとみなし、ヨハネ福音書をケリントスの著作だとして拒絶した。アロギ派によると、キリストの神性はどのような仕方であれ、父の神性と区別することはできない。そのような区別をすることは、神の単一性を破壊することになるからである。
p.170
デュナミス的(勢力的)モナルキア主義とモドゥス的(様態的)モナルキア主義である。
 「デュナミス的モナルキア主義」は用語としては不十分ながら、キリストの神性を神そのものではなく神から与えられた非人格的な力であると解釈することによって神の単一性を保証しようとする試みに対して、伝統的に用いられてきた呼称である。…知られている限りで最も早くこうした教理的立場を表明したのは、イエスを神と呼ぶことを拒否したテオドトスである。彼にちなんで、デュナミス的勢力論はしばしば「テオドトス主義」とも呼ばれる。…アルテモンは教えの聖書的根拠を示すと同時に、彼の時代に廃棄された古い伝承に基づいていると主張したようである。…
 デュナミス的モナルキア主義と同様に神の単一性を強調するが、キリストの神性にいかなる制限も加えない別の教理的立場は、一般に「モドゥス的(様態的)モナルキア主義」と呼ばれている。…
55 この教理を提唱したテオドトスという人物は二人存在したと思われる。一人は二世紀後半にビザンティウムからローマに来た人物であり、もう一人はそのテオドトスの弟子である。
p.171
 モドゥス的モナルキア主義は、キリストが完全な神性を有することを否定しないために、キリストと父なる神を同一視した。その結果、父なる神自らがキリストにおいて苦難を受けたと示唆することになった。そこで、この教理は「父神受苦論」と呼ばれることもある。この説を最初に唱えたのは、スミュルナのノエトゥスと、プラクセアスであろう。プラクセアスについては不明な点が多く、一部の研究者はローマ教皇カリストゥスのことであろうと推測している。…サベリウス自身がどのようなことを教えたかを正確に知ることはできないが、神の内に区別を認めることを否定して、神を「子にして父」(hyiopator)と呼び、子と聖霊は、ちょうど太陽が光線によって表されるように、贖いと霊感のために、神が自らを現すモドゥス(様態)にすぎないと主張した。
61 サベリウスはおそらく、父と子と聖霊それぞれの「仮面」という意味ではプロソーポンという語を用いてはおらず、むしろ三位を一つのプロソーポンとして語っている。後にプロソーポンが外的な表現形態として理解されるようになった時、三つのペルソナを提唱する正統主義神学者がサベリウス主義を批判するようになった。
p.175
二世紀中頃には、まだ第四福音書が正典に含まれるべきかどうかの議論が続いていたが、エイレナイオスによる熱心な擁護などからもわかる通り、やがて四つの福音書として広く受け入れられていった。
p.176
ヘブライ人への手紙は、まずアレクサンドリアで受け入れられるようになった。…最初に広く受け入れるようになったのは、おそらくヨハネの第一の手紙である。その他の書簡については、聖なる文書に含めるかどうかは、正典表によって異なっている。ヨハネの黙示録についても同様で、正典として広く受け入れられるようになるまでには時間が必要であった。その理由は、教会の中でこの文書に基づいて黙示思想を抱く人々があったことと、ローマ帝国がキリスト教化した後には、ローマに対する黙示録の言葉が厳しすぎると感じる人々がいたためである。
 また、諸文書の中には、ある時期、ある地域では霊感を受けた書物とみなされたが、時と共に新約聖書正典から除外されるようになったものもある。クレメンスの「コリント教会への第一の手紙」、「第二クレメンス」、「バルナバの手紙」、「ディダケー」、ヘルマスの「牧者」、「パウロ行伝」、その他同時代に生み出された幾つかの文書である。
p.179
マルケロスとルフィヌスに基づいて、四世紀に存在していたと思われるRを復元したものが以下の通りである。

 わたしは全能の父(pantokratora)である神を信じる。そしてその独り子キリスト・イエス、わたしたちの主、聖霊によって処女マリアから生まれ、ポンティウス・ピラトゥスのもとで十字架につけられて葬られ、三日目に死人の中からよみがえり、天に昇り、父の右に座し、そこから来て生きている者と死んでいる者を裁く方を信じる。そして精霊を、聖なる教会を、罪の赦しを、そして身体のよみがえりを信じる(74)。
p.188
ウァレンティノス派グノーシス主義をはじめ当時存在した諸教派は、物質を用いて世界を不完全な仕方で創造した責任が神にはないことを主張しようとするものであった。
p.189
そのためにグノーシス主義は、至高の神と世界が造り出されることになった誤りとの間に、長いアイオーンの鎖という考えを発展させた。また、同じ目的のために、マルキオンはイエス・キリストの父である神と世界の創造主を区別した。…

 神は二つの「御手」によって世界を創造し、統治する。御子と聖霊である。…グノーシス主義者たちが神と世界の間にロゴスを含む多くの中間的存在を設けることによって、神を創造から切り離そうとしたのに対して、エイレナイオスは逆に、創造と歴史の導きに、まさに神の御手が深く関与していることを強調したのである。
p.190
エイレナイオスを理解する上で、成長という概念は重要である。…しかも、この成長はアダムとエヴァの力によって達成されるのではなく、神による創造の継続の一部なのである。
p.191
その自由とは、神の目的を成就する可能性を有するという意味での自由であって、観念的な意味での自由ではない。…
…創造の目的に反対する仕方で誘惑するのではなく、神が定めた目的を加速させることによって、神によって確立された秩序を妨害したのである。
p.194
キリストこそは、多くの異端が否定していた、創造と贖いの継続性の根拠である。わたしたちを創造した神は、キリストにおいて救いを与える神と同一である。キリストにあって、人間がそれに基づいて造られ、またそれを目指して造られた神の像が、人間の内に宿るのである。それが、エイレナイオスが「再統合」(recapitulatio)と呼ぶキリストの働きである。
p.196
しかも、キリストの内にある神性と人性は、二つの「本質」もしくは「本性」とは理解されていない。それよりもむしろ、キリストが人類に語られた神のロゴスであるゆえにキリストの神性は人と結ばれたのであり、またキリストはロゴスに応答するという意味で人である。このようにエイレナイオスは、本質論的ではなく動的な概念を用いると共に、神性を人性と対比させる仕方での定義を避けることで、後の時代に熾烈なキリスト論論争へと発展したような困難な問題を避けることができた。
p.198
そのためにエイレナイオスは、使徒継承の教理に訴えた。この教理は最初の数世紀間キリスト教にとって極めて有用な道具であったが、後には多くの論争の原因ともなった。
p.199
もし使徒たちが、グノーシス主義者が言うように、なんらかの秘密の知識を持っていたとしたら、彼らは間違いなく、彼らが設立した教会の指導者として信頼して立てた人々、すなわち司教たちに伝えたはずである。…したがって、グノーシス主義の教師たちが、誰か特定の使徒から秘密の教理を受け継いだと主張するのは、偽りにほかならない。
p.205
 「抗弁」の最初の七章は異端一般を取りあげ、新約聖書にはこのような者たちが現れることが予告されているので、彼らの存在はなにも驚くべきことではないと強調する。信仰者は異端者の出現が聖書の言葉の成就であるので、彼らの存在はなにも驚くべきことではないと強調する。信仰者は異端者の出現が聖書の言葉の成就であることを知って、信仰を強めることになるのである。
p.206
 しかし、テルトゥリアヌスは決して見境のない不合理主義者ではなかった。…むしろ彼は、抑制のない思弁は本来の在り方をはずれてしまう危険があると信じていたのである。キリスト教徒にとって本当に大切なのは、実際の神の啓示なのである。このことは、神全能であるがゆえに子になることも可能であったとするプラクセアスの主張に対して反論した、以下の文章からも知ることができよう。
p.207
 神はすべてをなしうるからといって、神が行わなかったようなことまでも神が行ったと信じるべきではない。むしろ、神が行ったかどうかが問われるべきである。
p.208
正統主義教会はこの継承と教理の統一性を示すことができ、この事実に基づいて、教会は聖書が教会の不可分離な相続財産だと主張できるのである。それに対して、異端は突然現れ、新しい教理を教えているので、教会と同じ主張をすることができない。従って、異端は聖書に訴える権利を持ってはいない。
p.209
ローマで歓迎されたプラクセアスは、反モンタノス主義の闘いで教会と手を結びつつ、モナルキア主義をローマに広めた。
p.210
テルトゥリアヌスによると、プラクセアスは父と子の区別を認めることは神の「独裁」を破壊することになると主張したが、それは一つのペルソナでしか独裁の統一性を保つことができないと考える誤りを犯したのである。プラクセアスとその追従者たちが固執した「独裁」という用語は、テルトゥリアヌスによれば、単に統治が一つであるということを意味するものであり、統治者が子をもつこと、あるいは望む仕方で統治すること、つまりテルトゥリアヌスが神の「経綸」(オイコノミア)と呼ぶものを否定することにはならない。従って、神の独裁は父と子の区別を否定する理由とはならない。この区別を否定する者は「愚かとか無知とか言うよりも、単純な人々」にすぎない。
p.211
それに対して「ペルソナ」は「法的な人格」であり、なんらかの「スブスタンティア」を所有する者が「ペルソナ」である。幾人かの人々が一つのスブスタンティアを共有したり、一人の人が複数のスブスタンティアを持つことも可能である。…
…三者は単一の分割されないスブスタンティアを共有するが、同時に異なるペルソナであることも妨げられない。
p.213
こうした主張に基づいた父と子の区別は、後の時代には異端とみなされることになるものであり、テルトゥリアヌスの教説は子の従属説として非難されてきた。…しかし、わたしたちはモナルキア主義を論駁するという「プラクセアス反論」の目的からして、テルトゥリアヌスが父と子の一致よりも区別の方を意図的に強調していることを忘れてはならない。
p.215
 プラクセアスとその一派は、どうも父と子の区別を明確にすることができると主張していたようである。ただし、その区別は子への言及においてのみ可能だというのである。父は霊であり、子とも呼ばれる。子は肉となり、イエスと呼ばれる。それに対してテルトゥリアヌスは、イエス・キリストの単一性を強調してイエスとキリストを分離することを否定した。こうした分離は、彼によると、ウァレンティノス派に由来するものである。
…もしキリストにおいてロゴスが肉と結び合わされるために変形したと主張するなら、キリストは神と人間の間の中間的存在であることになり、真に神ではなく真に人間でもなく、テルトゥリアヌスの言葉によればTertium quid(第三の何か)であることになる。したがって、神の内に三つの位格と一つの本質があるように、イエス・キリストの内には二つの本質、すなわち神性と人性があり、その二つが一つの位格(ペルソナ)に属しているのである。この結合は両方の本質(もしくは本性)の独自性が完全に保持される仕方でなされたのであり、そのことはキリストの行為において明らかである。
p.217
この教理は霊魂伝遺説として知られ、テルトゥリアヌスにとって、魂が良心から子へと受け渡されるのと同様に、罪もまた受け渡されると考える根拠となった。こうして、原罪は肉体と同じように、両親から子へと受け継がれるものと解釈された。この解釈が現在を理解する上で唯一の方法ではあり得ないのは確かだが、聖アウグスティヌスを介してのテルトゥリアヌスの影響は西方教会に対してあまりにも大きかったため、西方では「原罪」と言えばこの解釈が一般的なものとなっていった。
p.222
プロティノスはこれにプラトンのデミウルゴスおよびフィロンのロゴスの特徴を持たせている。
p.223
続いての発出は、全ての人間の魂がその一部である世界霊である。このように全ての存在の階層が明らかにされ、最後の段階は他の極限としての物質である。
 こうした世界構造の中で、個々の人間とは肉体の内に閉じこめられた魂である。そこで、わたしたちが為すべき務めとは、肉体の牢獄に打ち勝ち、エクスタシーと呼ぶ「一なるもの」との神秘的な合一へと高められることである。
p.229
哲学はほとんどの作業を論理的な論述に基づいておこなう。しかし、ほとんどの哲学者が、全ての論述の根拠となるべき第一原因を証明することはできないことを認めている。第一原因は意志の行為によってのみ、つまり信仰によってのみ受け入れることができるのである。…
 「知識は信じられるべきものである」というのが、自立した哲学を展開しようとする者に対するクレメンスの回答の核心である。そしてこれと並立的な事実である「信仰は知られるべきものである」ということが、異端に対する反対論の核心である。
p.220
なぜなら、彼らの「信仰」は好みに合わせたものであって、聖書の知識に基づいたものではないからである。
p.231
どの聖書本文も、少なくとも二つの意味を持っている。字義通りと霊的な意味である。
p.233
また、これら二つの解釈の段階が分かちがたく一つに混じり合っているために、比喩的解釈というよりもむしろ予型論的解釈になっている場合も多々見受けられる。たとえば、イサクの犠牲は、歴史的出来事であると同時に、イエス・キリストの犠牲を指し示す表象もしくは予型でもあり、両者の関係は、創世記本文にある比喩的暗示の中だけに見出されるべきではなく、両者の歴史的出来事の構造と詳細そのものに見出されるべきである。
p.238
実際、以下の引用を見てもわかる通り、クレメンスは仮現論的な教えを攻撃しているにもかかわらず、彼自身、仮現論者と同じ思索に基づいているために、仮現論に極めて近い立場に立ってしまっている。
…おそらく、クレメンスはロゴスを信者に対する照明者、霊感付与者と見ているので、聖霊にも同様の機能を持たせることがしにくかったのであろう。
p.241
ロゴス論は聖書と異教の哲学を関連づける橋であり、歴史全体、特に旧約と新約の歴史を統合する原理である。…しかしクレメンスのロゴス論において、わたしたちはヘレニズムの伝統とキリスト教の伝統の解決され得ない緊張関係をも明確に見いだすことになる。
p.243
 オリゲネスはその極端な禁欲主義のために、福音書が「天の国のために体の一部を切り取る」人々について言及しているのを文字通りに受け止め、自らの生殖器官を切除してしまった。
p.249
「諸原理について」を読む場合、常にルフィヌスの手が加えられている可能性を考慮し、オリゲネスによる原文が何を意味したかを、残されている他の著作を手掛かりにして推測しなければならないのである。

 オリゲネスは、聖書解釈については、字義的解釈とは対極の方法を用いたが、聖書が逐語的に神の霊冠を受けていることについては確信を抱いていた。
p.256
 一つは、子の神性と永遠性を強調する傾向である。
p.257
しかし、紀元三一〇年に死んだのでアレイオス論争を知らないパンフィロスが、次のように書き記している。オリゲネスによると「神の子は神と同質として、つまりομοουσιοςとして、父と同質として生まれた。子は被造物ではなく、受け入れによって真の子になったのでもなく、神ご自身から生まれ本質において神である」。(Apol, Pro Origine 5: PG, 17:581.)
p.258
 しかし、オリゲネスの神学には、父と子の区別を強調するもう一つの潮流も存在している。…
 オリゲネスの三位一体論全体を通して感じられるのは、子を父よりも幾分劣る、あるいは神性において少し低く位置づける傾向があることである。
p.259
それは、当時の最大の異端が、父、子、聖霊を、同じ神が三つの時代に建言した者であるとする、モドゥス(様態)的モナルキア主義の最終形態であったことを考えれば、容易に理解できることである。先に述べた通り、近年発見された文書で明らかになったオリゲネスの論争相手である主教ヘラクレイデスが主張していたのは、このような教説であったと思われる。この論争でオリゲネスは、父と子の区別を明確にするため、父と子は「力」において一つの「ふたりの神」であるという極端な言い方までしている。

 オリゲネスによると、聖霊は父から出るのであり、時間的始まりを持つ被造物ではなく、父と子と同様に永遠である。
p.261
ここから先の議論は、オリゲネスも可能性として示唆するだけなのだが、この目的を達成する過程の途上において、わたしたちは存在の一つの階級から次の階級へと、転生を繰り返さねばならないと考えていた可能性がある。
p.266
その結果、クレメンスの場合、照明者としてのロゴス論を特別に強調することとなり、彼の最も危うい教理である、ロゴスによる特別な照明を受けた者だけが到達できる「グノーシス的」もしくは特権的キリスト教へと至った。
p.267
他方、オリゲネスはロゴス論からではなく神論から出発する。しかし、神の性質は、聖書に基づくよりもむしろプラトン主義的に理解された。…
…第一の類型はエイレナイオスによって代表されるもので、筆者の判断では最初の類型であり、従ってテルトゥリアヌスとクレメンスにも見られるものである。この類型は、歴史を神学の中心主題に据え、歴史を神による創造から最終的な目標までの導きの過程とみなす神学である。それと対照的に、テルトゥリアヌスの主眼は、神の方と、法に従うために為すべきことに置かれている。第三の類型はアレクサンドリア、特にオリゲネスの神学であり、プラトン主義の伝統に基づいて認識された真理に強調点が置かれている。
p.273
ヒッポリュトス自身も、スミュルナのノエトゥスが主張する様態論への反論として三位一体論を展開した。ヒッポリュトスによると、ノエトゥスは「キリストとは父自身のことであり、父自身が生まれ、苦難を受け、死んだと主張した」。この様態論はサベリウスがおもな擁護者であったため、後に「サベリウス主義」として知られるようになった。
…もしヒッポリュトスがカリストゥスについて書いていることが全くの作り話ではないとしたら、カリストゥスの立場はモナルキア主義に近いと言わざるを得ない。
7 サベリウスがどのような教理を主張したか、正確にはわからない。サベリウスが様態論に貢献した唯一の重要な点は、それまでは父と子についてだけであった議論に、聖霊をも加えたことかもしれない。サベリウスがより複雑な神論を展開したことを示す文献も存在するが、それらは後の時代のものであり、どの程度サベリウスに帰することができるかどうかはっきりしない。

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中世で「魔女狩り」に遭ったのはどんな人? 知ると背筋が凍る、世界史の真相
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 学校の授業を思い浮かべると、「世界史」という科目で覚えなければならない項目はとても多い。人類発祥から私たちが生活する現代に至るまでを網羅するのだから、当然といえば当然だ。「あまりにも暗記量が多すぎて、どこから手を付けたらいいのか分からない」と悩んでいる現役の学生も多いだろう。
 
 そんな世界史には、おもしろいエピソードもたくさんある。『オイシい場面(ところ)がつながるつまみ食い世界史』(歴史の謎研究会:編/青春出版社)は、思わず興味を惹かれてしまうような歴史の舞台裏を数々紹介する。たとえば、「いまだに解けない人類誕生のミッシング・リンクとは?」「たくさんの人を死に追いやった『魔女狩り』のコワい話とは?」など、気になる話題が満載だ。早速これらのトピックについて紹介したい。

いまだに解けない人類誕生の「ミッシング・リンク」とは?
 ミッシング・リンク(鎖の失われた環)という言葉を知っているだろうか? 生物の進化の過程ではっきりわからない部分のことだ。サルと人間の中間も謎に包まれている。

 意外なことに、人類誕生の歴史についての真剣な研究が始まったのは、ここ160年のこと。1856年、ドイツのネアンデル峡谷で「ネアンデルタール人」と名付けられる化石が発見されたのが最初だ。当初は顔つきがあまりに人間とかけ離れていたため、人類の祖先だとする考えは一蹴された。しかしその後、人類の祖先とおぼしき化石は続々と発見され、人類の進化につれて「猿人」「原人」「旧人」「新人」と定義づけられた、と本書は説明する。まだ私たちが見知らぬ人類の先祖が、どこかで眠っているかもしれない。人類発祥の謎が解かれるのはまだまだこれからなのだ。

大勢を死に追いやった「魔女狩り」のコワい話とは?
 恐ろしい歴史の話ほど興味を掻き立てられるのは、なぜだろう。現代における「魔女」といえばマンガや小説などのファンタジー世界の住人だが、実際に魔女の疑いをかけられ残酷な方法で処刑されてしまうという時代が存在した。犠牲者は最大400万人にものぼる。

 魔女狩りは当初、社会的に弱い立場に置かれた人々が標的とされたが、次第にエスカレートし、気に入らなければ誰しもが「魔女」となった。魔女と確定されれば「火刑」に処されるが、これにも理由がある。キリスト教では男性は太陽を女性は大地を表すが、火は光と同じく太陽に属するため、火でもって処刑されなければならなかったのだ。

 当時一人暮らしの女性は家庭の平和を乱すものと捉えられていたため、魔女狩りの格好のターゲットとなってしまったという。思わず背筋が凍った…という方は多いのではないだろうか。

 本書にはこのほかにも「リンカーン暗殺で今ささやかれる黒幕の存在」「ナスカの地上絵が描かれた真の目的」「1929年の世界大恐慌がアメリカで始まった理由」など、好奇心が刺激されるエピソードが多数詰め込まれている。文明の始まりから21世紀まで、網羅する時代は幅広い。どこから取り掛かろうか悩んでいる方は、まず本書の目次で心惹かれるタイトルを追いかけてみよう。気になるところからつまみ食いしていくうちに、世界史の大きな流れが頭に入ってくるはずだ。

文=寿々


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