mixiユーザー(id:6486105)

2019年11月01日17:54

109 view

続「青年の家」探し

 昨日、手持ちの日本地図帳(2016年版)を広げた。A4版、各県見開きなので、A3大になる。島根県は43万分の1縮尺だった。太田市から山に向かったのか、浜田市から山に向かったのか?
 ネットであれこれ検索していると、太田市観光物産協会のHPがあった。
「おおらか。おおた」、というキャッチコピーが付けられている。ざっとスクロールしてみたら、”お問い合わせ先”というバナーがあったので、1972年12月に自分が宿泊した「青年の家」がどこなのか知りたい、と用件を書き送った。自分たちの町を「おおらか」と表する姿勢に、私は少なからず好感を抱いた。
 今朝11時、丁寧な返信をいただいた。 

 調べてみましたが、確定はできません。太田市の南にある邑南町(おおなんちょう)に問い合わせをしたところ、それは町立の施設「いわみ荘」ではないか、と言われました。
 邑南町役場のMさんにお問い合わせをしていただければお話しいただける、とのことでした。どうぞお問い合わせくださいませ。
                       太田市観光協会 〇〇〇〇

 正午になるちょっと前、Mさんに電話をしたら、あいにくご不在。
 午後4時に再度、Mさんに電話をした。が、不在だったのだが、電話をとった課員が「私でよろしければお話をうかがってMに伝えます」というので、あらためてゼロから話をした。

 1972年12月27日前後、私たち高校生2名は太田市か浜田市から広島市方面に向かうバスに乗って、山の中の一軒宿というにふさわしい辺鄙な「青年の家」に泊まった。私たちを置いて職員は帰宅してしまった。大雪警報が出たから。
 翌々日まで私たちはごはんとタクアンを食べて餓えをしのぎ、ようやくバスの運行が再開したので、広島市に向かった。
 今思えば得がたい体験をさせてもらった。どこのなんていう宿泊施設だったのか、知りたい。

 電話をとった課員は「1972年はまだ自分が生まれていなかった」「お話はよくわかりました。Mに伝えるとともに、自分たちでもそれがどこだったのか探してみます」と答え、さらに宿の特徴や立地で思い出すことはないでしょうか、と私に質問する。
「建物から30メートルくらい先になだらかなスロープがあって、私たちは玄関口にあった橇に乗って遊んだ」「そう言えば卓球室があった」「建物の周囲に民家は一軒もなかった」などと答えて話を終えた。
 こうなると、相手のご厚意にすがる他ないので、話している間、申し訳ない気持ちになる。
 これが空振りになったら、またゼロから探してみることにする。
4 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2019年11月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930

最近の日記