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2016年09月29日10:41

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そのケンカの根の根と、自分を見失うこと

  歴史研究は書店にほとんど売られていないような多くの古典書を一人でコツコツ調べ上げていく作業であり、地味な努力の積み重ねです。日本史を当時は専行して学んでいたK氏も一人でやる地味な努力を好み、また、歴史学者に向いた性格である事が今の僕には判ります。やはり、歴史を徹底して研究した司馬遷にも通じる面があるはずです。そのような性格を持つ人は意思疎通を目的とする手話会には向かないでしょう。


  聴覚障碍関係でも、本当は日本の聴覚障碍者の歴史の研究会を作れば良かったかもしれないと今の僕は思うわけです。そうすれば、聴覚障碍者の悲惨な状態を話しても会員たちは熱心に聞いてくれるし、K氏自身も伸びるはず。それを踏み台に歴史学者の道を歩んだ事も十分想像されます。今はその大学の日本史の教授にもなって。

  大体、聴覚障碍者の全てが手話会に向くとは限りません。向くのは社交性に富んだ性格とか、通訳の素質があるような人たちに限られると思います。僕も今までは「聴覚障碍者=手話会」というイメージがありましたが、それは一種の偏見でしたね。手話会に向かない性格の聴覚障碍者もいるわけです。今は余り見られないですが、40年前までの日本では脳性まひ者が集って、皆でデモみたいな事をする事が「脳性まひ運動」と呼ばれていました。でも、僕もそうでしたが、徒党を組む事が苦手で、そのような運動ができない・向かない脳性まひ者もたくさんいました。つまり、昔の言葉で言う所の、脳性まひ運動が向かない脳性まひ者がたくさんいたように。

  又、K氏が度々話したと伝えられる「ろうあ者の気持ちはろうあ者にしか判らない」も考えてみれば、変です。「私」という主語がないから。それは英語や中国語に翻訳はできません。ろうあ=聴覚と言語の障碍なるものは、特定の個人が持っているものです。英語では「I HAVE」になります。外国人たちにそのような事を話しても理解はできないでしょう。恐らくは以下の通りではなかったかと。

  高校時代までのK氏は地方の聾唖学校に通っていたようです。その学校は聴覚と言語障碍のある者だけの世界。買い物や遠足で町に行く事はあったと思いますが、非常に狭かった。僕みたいに多くのボランティアの若者たちと交流したわけでもなかった。それが大学に入り、いきなり周りは健聴者ばかりの世界。しかも高校までよりも非常に広い世界。ならば、自分は単に「耳が不自由な人」だと思うようになり、それにこだわるように。その過程で自分の心を忘れて、単に「私は聴覚障碍者です」とだけ主張するようになり、得意な歴史学を主張するのも忘れるようになり、その結果、性格に合わないような手話会を作ったと。それは元々K氏にとってはムリな事で、それゆえ、ムリな運営をしてしまい、ケンカにもなったと。そのように推察もできます。

  まだケンカで良かったと思います。性格に合わない事ばかりしていると、人生が狂い、一生を棒に振る事もあるわけですから。恐ろしいわけです。国や民族レベルにも言える事かもしれません。20世紀初め、夏目漱石は日清・日露の戦争に勝って驕れる人たちが多かった当時の日本を見て、日本人の性に合わない事だと鋭く感じ取り、亡国の予感を抱きました。本当にそうなったわけですが。源氏物語や悪人正機を生み出した日本文化は戦争には合わないし、ある程度の経済基盤は必要にしろ、過度の経済競争にも向かないでしょう。同様に、儒教など、「徳」を生み出した文化の中国にも、今の経済第一主義は果たして合うのか。中国人たちが決める問題ですが、隣国から見て、僕は首もかしげるわけです。

  とにかく、自分らしく生きなければなりませんね。

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