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2015年05月31日23:29

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日光東照宮と15匹の猿

関東では今の時期、小学生の修学旅行に日光東照宮へ行くことが多い。この東照宮は皇居から真北の方角で、東京駅から見ても、6°22分西傾、つまり「磁北」に設定すると、線上に日光東照宮になる。家康は一度静岡県の久能山に葬られた後、日光東照宮に葬られた。このような手の込んだことをしたのはほかでもない。江戸城から見て120°、更に120°に日光東照宮がある関東は東南の方角が房総半島しかないので、東南の方角のエネルギーが不足している。その不足するエネルギーを補う為、このようことをしたのだ。これを三合という。このプロジェクトを進めたのは天海だった。東照宮は家康の御霊が眠る。この建物もまた日本の当時の建築技術の粋を集めた素晴らしいものだが、数々の謎がある。

 中でも今回興味深いのは境内にいる猿たちである。有名なのが「見ざる、言わざる、聞かざる」の猿たちである。しかし実際には、後12匹設置されているのだ。これが不気味な符合を暗示している。

 徳川将軍家の数と一致するのである。この将軍家の数だと仮定すると、ポーズも暗示的だ。

 最初の猿は子ザルを伴っている。長男・信康を織田信長に切腹に追い込まれた家康ではないかと思われる。

 ここで有名な「見ざる、聞かざる、言わざる」が出てくる。

 2〜4匹目、徳川将軍家では秀忠、家光、家綱で、鎖国政策が完成した時期だ。5匹目、6匹目は上を見てもキリが無い猿、下を見てもキリがない猿であり、5代綱吉、6代家宣を暗示させる。2人の代は最早初代・家康のような絶対的権力を失っていた。側用人の言いなりの時代である。側用人無しには上を見ても下を見ても何も出来ない姿を暗示させる。

 ところが8匹目の猿は周囲をいたわる余裕も見せる。この猿は8代将軍・吉宗ではないか。吉宗は始祖・家康を目指した中興の祖である。

 13匹目から猿は波に乗り始めるが、13代あたりから目に見えて幕府の屋台骨が揺らいできた。

 が、最も不気味なのは15匹目の猿だ。この猿はそっぽを向き、「立ちさる」姿を見せている。この猿はまるで15代慶喜を暗示させる。最後の将軍は幕府から立ちさるかのようだ。実際慶喜は最後駿河に70万石として国替えとなった。

 幕府が未来永劫続くようにと祈願した天海だったが、その滅亡も美しい彫刻で預言していたのかもしれない。日本の首都を支える東京はこのような建物を始めとする風水の仕掛けで守られている。

 最後までお読み頂き、ありがとうございました。

 

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