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2015年03月29日21:45

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天野山金剛寺 平成大修理

まず入って最初に改修中である事に気付きました。

天野山金剛寺は、奈良時代に聖武天皇の勅願により、当時の高僧である行基によって開かれたと伝わっています。
また、平安時代には、弘法大師の修行の聖地として知られています。
その後、衰退をしますが、平安時代の終わりに阿観上人が後白河上皇とその妹の八条女院の庇護を受けて金堂(本堂)多宝塔、御影堂などの伽藍を再興してゆきました。
その結果、金剛寺は八条女院の祈願所となり、また、侍女が阿観上人の弟子となり、二代続けて院主となったことから、「女人高野」と呼ばれるようになりました。
その後、鎌倉時代の終わりには後醍醐天皇との関係ができ、南北朝時代には、南朝方の拠点となり後村上天皇が正平9(1354)年から6年間、子院の「摩尼院」「食堂」を行宮として政務を執られました。
また、その間、 北朝三上皇が、一時子院「観蔵院」に幽閉された時期がありました。
南北朝が終わり、寺領から生み出される米や木材、炭、特に「天野酒」は商品として寺の経済を潤し、子院は80以上を数え、さらに、織田信長や豊臣秀吉の庇護を受け幕末まで307石寺領を所有しました。
このような歴史から、金剛寺には、国宝3件、重要文化財40件をはじめ数多くの美術工芸品や歴史的建造物が伝えられています。
特に伽藍には金堂、多宝塔、御影堂、鐘楼、食堂、楼門などの重要文化財や、五仏堂、薬師堂、開山堂などの大阪府指定文化財で構成されています。
これらの建物は、慶長11(1106)年に豊臣秀吉によって修理され、また、元禄13(1700)年に徳川吉宗の命により岸和田藩主が奉行となって修理を行っています。
この元禄時代の修理から300年間、大規模な修理は行われていません。
その為、永年の風雨に耐えた建物は沈下や歪みが生じ、この度、解体修理をする事になりました。
また、金堂に安置されていますご本尊の大日如来坐像、脇侍の降三世明王坐像、不動明王坐像の三躯の仏像も修理する運びとなりました。
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