――ヒトの記憶野は、その領域を効率的に使うために、
線形配列ではなく離散配列で記憶が保存される――現代脳神経学
医師である彼は不安を抱えていました。
彼は世界的にも知られた優秀な脳外科医で、脳動脈瘤、脳梗塞、脳出血で様々な手術法を習得し、いつの間にか神の手とも比喩される有名医師となっていました。
それゆえ、その大きくなりすぎた評判ゆえ、思いもかけない依頼が飛び込んで来たのです。
依頼と言うのは、脳梗塞を起こした小国の独裁者の手術、でした。
既に世界が資本主義の力学に並行して進んでると思われる現代でも、世界の端ではまだ独裁は生き残っています。
その国は主要国や民主主義国家の６０％と国交断絶状態にあり、外部に漏れ伝わる情報では未だ厳密な階級制度、密告による投獄や処刑、少数民族に対する弾圧と民族浄化、更に内政不安による餓死や凍死が起こり、数万とも数十万とも言う国民が、独裁政権の餌食になったと専ら噂されていました。
そして、高齢となった独裁者が脳梗塞で倒れ、彼にその脳血栓除去手術の依頼が舞い込んできたのです。
彼の頭の中を、色々な想像が駆け巡り始めました。
当然、独裁者を救えばまたその小国が血と粛清の嵐に見舞われて闇の中に突き落とされるでしょう、しかし医師である義務として病人は救わなければなりません。
もしかしたら、独裁者が死んだ場合は、その跡目や後継を争って暗殺や内乱が起こり、独裁者が生き残った時よりも更に桁違いの犠牲者がでるとも考えられます。
独裁者の未来だけではなく、彼自身の未来にも暗雲が立ち込めていました。
仮に助けられたとしても、歴史的な大量虐殺者の命の恩人という汚名を被って生き続けるのか、失敗したとしたら、その小国からそもそも無事に出国が可能なのか・・・・・・
何もかも将来の仮定の話で、今考えてもどうにもならない堂々巡りだという事は、彼自身も十分理解していましたが。
それを理性的に自分に言い聞かせても、得体の知れない不安と暗鬱は晴れませんでした。
”青灰色の門を探し、そこをくぐって貴方に必要な物を見てくると良いですよ”
暗澹たる気持ちの中、小国への出立を間近に控えた彼のPCに差出人不明でタイトルの無い、
その一文と地図が添付されたメールが送られてきました。
普段は差出人も解らない、しかもウイルスの危険がある添付ファイルなどは手も付けず削除するのが常ですが、PCで独裁者のCTやMRI画像を見続けて神経が疲れ切っていたのか、あるいはどこか自暴自棄になっていたのか、惹きつけられる様にいつの間にか、そのメールと添付ファイルを開き彼は地図を眺めていました。
彼は意を決し、コートとプリントアウトした地図を持ち、メールの示す場所に向かおうと街に出ました。
医師としての知識や、病人や死者と何度も対峙した経験を持ってしても、正体不明の不安が頭の中から取り除けない、寧ろ、彼の優れた知識や想像力が不安を更に掻き立てるのを感じ、なにか外的な要素や教示でしか、それを払拭する事が出来ないとその時点で、自分自身結論付けていたからです。
地図はとても奇妙なものでした。
目的地に最短距離で到達するのではなく、時には一区画を一周して元の場所に戻ってみたり、
袋小路のどん詰まりまで進んで、元来た道を戻ったり、無意味とも思える経路を取っています。
しかし彼は全くその地図の指示通りのルートを辿りました。
（まるで街が脳の神経回路で、ヒトがそこを流れる神経信号のようだ）
彼は道を辿りながら自分の専門分野と、街、今の自分、そして街を歩く人々を重ね合わせました。
（脳の神経や記憶は、反射反応と違い距離的な最短経路を取る事はまず無い、
何故なら脇道にそれたり、割り込み処理が入る事で様々なメリットが入るからだ、
記憶はどうだ？過去の記憶に快感や不快が付加されないと、
何が生存に必要で何が危険かも判断出来ないじゃないか・・・・・）
そんな、医学部入りたてで習った初歩的な心理神経学を思い出しながら経路を辿り続け、周囲から自分以外の通行人も居ない寂れた石畳の路地を歩いた先に、メールの差出人が示したであろう、青灰色の構造物が姿をあらわしました。
そこは昭和の半ばに放棄された診療所の跡地でした。
元は鮮やかな青だったモルタルの壁は色あせた青灰色に退色し、所々剥げ落ちひび割れていました。
手入れされてない石畳の隙間からは雑草が生い茂り、格子付きのガラス窓には大きく穴が開き、遠くからでも荒廃した医院の中身が窺えました。
（もし依頼を受けたら、結局俺が働けるのはこういう廃墟しか無いって皮肉か・・・・・）
彼はメールの送信者を意図が、結局そんなブラックジョークかと嘲笑しながら、医院の奥へと歩みを進めました。
と、診療所の内部に入って間もなく、
入院患者を受け入れる入院病棟に差し掛かった頃、誰もいないはずの部屋から明かりと人の気配が漏れてるのが彼を一瞬驚かせました。
（俺をここに誘った送信者が待ち伏せしているのか？、反独裁のレジシタンスで、手術をする俺を襲うか殺すつもりか？）
彼は額と脇の下に緊張の冷や汗を感じました。
（しかし、相手は気配を消しておらず、しかも複数だ。襲うなら診療所の入り口や人気の無い路地で待ち伏せした方が効率的だろう、
俺を呼び出したにはきっと別の目的があるはずだ・・・・・）
彼は呼吸を整え、意を決し、明かりの漏れるドアの前に立ちました。
そしてそこで彼が病室の中に見たのは―――
まるで映画か演劇の一場面の様な風景、出演者は彼、独裁者、医療スタッフ、独裁政権の幹部―――
そう、そこで繰り広げられていたのは、数日後に独裁の小国で繰り広げられるはずの光景でした。
『手術は無事成功です、ドレナージを摘出する処置は必要ですが手術後の浮腫も見られませんし、何の危険もなく完了するでしょう。』
『ご苦労様です先生、手術後管理室からICUに移ったら我が国の医療スタッフが処置を引き継いでも宜しいでしょうか？』
『何分、薬量の管理や、手術後の血栓、合併症の有無はうちのチームで管理しなければなりません、それで数１０％も術後リスクが変わってくるとご理解頂きたい。』
『・・・・解りました、では我が国の医療チームが引き継げる最も早いスケジュールと、
最も重要な注意点をお願いします。』
『スケジュールに関しては私たちも最善の努力を致しますよ。
あと注意点に関しては血栓を溶かすヘパリンと言う薬です。
これは逆に血を固める栄養素、ビタミンKやクロロフィルと言った物を摂取すると効果が無くなり
また梗塞が起こるので一番注意すべき点です。
ビタミンKもクロロフィルも普通の食物に入ってる普通の栄養素なんで、よっぽどの専門医じゃないと原因不明の血栓という事で、何も手が打てなくなりますよ。』
『解りました、先生。』
そう答えた独裁者の腹心の目に、得体の知れない光が一瞬輝いた様に見えました―――
そして”現在の”彼は、砂利とモルタル片に埋まった廃墟の床に座っていました。
彼は最初から、依頼を受け独裁者のカルテを読んだ時から、自分が手術をして独裁国の国民を裏切り、更に腹心に独裁者の暗殺を促す事で、医師である事への二重の裏切りをする事が解っていました。
（未来は結局ここに有る・・・・）
彼は自分の頭を指差しました。
人の記憶は、覚えた順番どおりに並ぶのではなく、記憶領域に散り散りに並べられ、思い出す時に脳の別の機関で時系列を整理され出力されます。
（未来に見るべき記憶は、元から脳内に有ったものが再出力されているだけなのだろうか、
結局ヒトは主観を通してでしか記憶を維持できない、
今や未来に俺が見てるモノは、脳が編み上げた複雑なタペストリーか・・・・・）
そうして彼は立ち上がりました。
再び病室を覗くと、そこには砂利だらけの床と壊れたベッドがあるだけです。
（意志が強い人間であれば、解ってる未来でも何らかの抵抗をするものだろうか？）
彼は呼吸を整え、軽く目をつぶると、既に先刻まで有った得体の知れない不安が、消え去っているのを感じ取りました。
（・・・・・じゃあ、行こうか）
心の中でそう呟き、彼は裏切りの待つ世界の端へと歩みを進める決意を固めました。【完】
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