午前10時、血液検査の結果を聞きに行きつけの病院へ。
特筆すべき問題はなかった。
「最近、疲れがひどい上に、歩くのも億劫なくらい身体がバテている」と医師に訴えるものの、取り合ってくれない。自分は精神の病いを長年患っているのではないか、などとずっと疑っている。
帰宅して詩人の翻刻原稿に向きあっていると、玄関のチャイムが鳴り、現金書留を受け取った。山梨往復の交通費だ、ということだけど、半年ほど前にそれ相応の金額を受け取っている。困ったな、と思う。しばし考え込み、7月から取り組んでもらっている校正者にそのお金を「校正料前渡し分」として渡すことに決めた。
詩人のご遺族にお礼の電話を掛けて、自分の考えを話す。了承してもらった。
「もし打ち合わせ費が足りなくなったら、いつでも言ってくださいね」と念を押される。が、今は入稿原稿の仕上げに時間を取られていて、甲府へ行っての打ち合わせさえ出来ないほど煮詰まっている状態だ。
午後3時を過ぎた頃、先々週友人から届いたはがきの返事をだすべく、自家製はがきを作成して手書きにて現状報告などを綴る。ZEBRAのSARASAというジェル・ボールペンを使っているのだが、水性インクの滑らかさと油性インクの濃さが合わさってとても書きやすい。ボールペンがどんどん進化していることがこの歳になるとありがたい。もう、 弘法筆を選ばずじゃなくなってきた。
はがきを書き終え、散歩午後の部を兼ねて郵便局へ。
ポストに投函後、隣の生涯学習センターの前を通ったら、意味がわかったようでわからない写真展のポスターが掲示していて、つい興味をそそられた。
畑を借り
種を播き
花を育て
虫を待つ
このようなキャッチが書かれていた(記憶だけで書いているので間違っているかも)。
ギャラリーに入ってみると、花の写真展だった。花には必ず昆虫が映り込んでいる。多くは蜂だったが、カマキリもいたし、蝶や蛾もいた。
それにしても上手な写真だ……と思って一枚一枚見て回っていたら、声を掛けられた。
撮影者の息子だそうだ。
写真は一冊の本にまとめられている。植松國雄さん、『野菜の花写真館』(敬文舎刊)。本の発刊日翌日、亡くなられたとのこと。
日芸を卒業後、小学館に社員カメラマンとして就職し(途中から編集職へ)、定年退職後、花と昆虫の写真を撮る暮らしを楽しまれた。
息子さんが話し掛けてくるので一所懸命、答えながら、掲示されているすべての写真をじっくりと見させていただいた。
ウツ状態なのでちょっときつかったが、それにあまりあるインスパイアーがあった。
その伏線には今朝の朝日で丸々一面を使った田中泯のインタビュー記事がある。
「踊れていない私たち」というタイトルが付いていて、身体性を失った現代社会のいびつさを静かに告発する内容だった。
「我を手放し自然に分け入ってみる。自然の一部であるという謙虚さを思い、自分を俯瞰する」
これが現状批判への回答である、みたいなことを田中は喋っているのだが、まったくその通りだ。
さらに痛快だったのは、数々のダンスグループ(AKBとかKポップを指す)の一糸乱れぬダンスを「兵士の訓練と何も変わらない。そこにあるのは、指示通りに動けているかという管理です」と言っていることだ。
私はこれまですげえや、とただ感心していただけだが、田中に言われて考えが変わった。田中の語る身体性とは、キレキレのダンスなんかではなくて、自分の内なる感性に従って動く動物的な身体をもっと意識しなさい、しょせん人間は自然のなかの動物に過ぎないのだから、ということだ。
いい展覧会に来たものだ。
つくづく思う、偶然って面白い。
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