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2022年11月01日20:48

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【バレエ】ヒューストン・バレエ「白鳥の湖」(30日マチネ)

まだ若葉マークを額に張り付けながら仕事をしていた頃、吟醸酒に開眼した。当時はネットの普及過渡期だったから、関連の書籍を参考に居酒屋や酒販店に通っては散財した。そこから得た教訓は、

「美味しいと紹介されている酒は(不味いから)買ってはいけない」


招聘元の光藍社によれば、ヒューストン・バレエが日本で全幕公演を行うのは今回が初めてとのこと。珍しいもの好きとしては観にいかない理由がないので、コロナの終息を期待しつつ早々にチケットを入手した。「白鳥」好きだし。

ただ、不安がないわけではない。新国へのゲスト出演やガラ公演の様子からヒューストンのダンサーたちには好印象を抱いていたが、Kの飯島さんがここのプリンシパルだったと言われてしまうと・・・。

公式サイトの解説には「全米屈指」「異色作」「驚きと衝撃のストーリー展開」など魅惑的な文言も並ぶが、「売る側」の評論家や批評家の書いた文章は詐欺師や政治家の甘言と同義だから、それを真に受けるほどお人好しではない。(笑)

しかしまあ、その仕事ぶりからはバレエへの愛を感じる光藍社の審美眼を信じて、上野に足を運ぶことにした。
https://www.koransha.com/ballet/houston/


★ウェルチ版の特徴と印象

ここの「白鳥」は芸監ウェルチさんの手による改訂版。彼はサンフランシスコ・バレエの学校で学び、卒業後はオーストラリア・バレエに入団、ダンサーとしては大成しなかったようだが1995年には同団の常任振付師に就任している。作品の傾向はコンテ寄りというのが古典好きとしてはちょっと気になったが、ベースは古典というから足取りは重くならなかった。

構成は3幕で、70分、50分、20分の2時間20分。20分の休憩2回を挟んでちょうど3時間だから、長さや配分は一般的な数字ではあるが、観た印象はかなり異なった。

バレエ作品の改訂版は、ざっくり分けると3つのタイプに分類できる。ひとつは原典から余分な枝葉を剪定し輪郭を整えたもの。シンプルではあるが物語は整理されてわかりやすく、演出も合理的で効果的。「白鳥」で言うのなら、長い時間をかけて洗練されてきたマリインスキーのセルゲイエフ版やボリショイのワシリーエフ版といったソ連版(今はあえてロシア版とは言わない)がこれにあたる。

2つ目はその対極にある作品で、原典から音楽やイメージを借りてはいるが、中身はまったくの別物。一歩間違えるとただの色物になってしまうが、マイヨー版やノイマイヤー版、ボーン版のような優れた作品もある。

3つ目は両者の中間で、その時々の芸監がよくやる自分バージョン。原典を尊重しつつも独自の解釈を加えたもので、原典とほとんど変わらないものもあれば、いじられ過ぎてタイプ「2」に入れるべきか迷うものもある。ヒューストンのウェルチ版は「ちょっと2寄りの3」だった。

幕が上がると場面は王宮の庭園ではなく鬱蒼とした森の中。ドレス姿のオデットとロットバルトのやりとりは、今ではもう珍しくなくなったが、ブルメイステル版を嚆矢とするプロローグに相当する。しかしその後も舞台装置は変わることなく、王子たちの狩場である森の中で物語は進んでいく。

ちなみに甲冑を着ているかのような姿のロットバルト(フクロウには見えないがかっこいい)には、サンクトペテルブルク・アカデミー・バレエ(ヤコブソン・バレエ)のペトゥホフ版のように男性の部下が複数いて、手に長い棒を持ってマントを広げるところもそっくりだ。ウェルチ版にはさらに4羽の黒鳥もいるので悪の軍団感がある。(笑)

2場が始まっても王子、出てこないなぁと思ったら、仕留めた熊? とともにしれっと登場するから拍手のタイミングが難しい。あらすじによると狩猟を終えて野営の準備に入ったところとあるが、ジーク母がお供とともに徒歩で登場、さらにお嫁さん候補4人もやってくる。

新しい演出へのチャレンジは是とするが、せっかくやるなら細部も詰めるべきで、誕プレを手渡したり挨拶のためだけに貴族の娘たちを立ち寄らせる場所として考えると、狩場は適切とはいえない。せめて共に狩りを楽しむとか、登場する時は馬車に乗せるなど、もうひと工夫欲しい。でないと「ジゼル」や「眠り」のパクリにしか見えない。

貴族の娘たちの自己紹介を兼ねた踊りや、男性陣の迫力ある群舞が終わると、あらすじには王子が野営地をひとり離れるとあるが、視覚的には在版同様他の人々が王子をひとり残してはけていく。在版は「ひとりになりたいから先に帰れ」の場面なのだが。

森をさまよう王子を木陰からドレス姿のオデットがみつめ、王子もそれに気づいてボーイ・ミーツ・ガール。PDDを挟みロットが登場、彼女を連れ去ると、オデットは白鳥(チュチュ)姿になって再登場する。続く群舞の登場場面も3場の後半扱いになっているが、観ている者の感覚としては白鳥群舞シーンは4場になる。

オデットの早着替え以外にも、村人たちの踊りを勇壮な男性群舞にしたり、トロワの代わりに姫さまたちを躍らせたり、道化の代わりにジークの妹を2人登場させるなど手を加えた個所はいろいろあるので、サイトの解説者は「『白鳥の湖の1幕は面白くない』という先入観を覆してくれます」と記すなど絶賛しているが、実際の舞台はアイテムを盛り込んだ割にはブラッシュアップ感に欠け、オデットも出たり入ったりとせわしないなど、面白いというよりは雑然とした印象の方が強い。

そもそも「白鳥」の1幕が面白くないという話は、長年バレエを観ているが聞いたことも感じたこともない。せいぜい下手な踊り手だとアダージョが眠くなるだけで、物語の導入部である1場は賑やかで楽しいし、2場の白鳥群舞と主役のPDDに至っては「白鳥」どころかバレエを代表する名場面であることはご存知の通り。いくら依頼対象を持ち上げるためとはいえ、ものには限度がある。話を捏造したり嘘をつくのは、文筆家としての品格を問われるNG行為だ。

ヒューストン・バレエの特筆すべき長所は、背が高く体格も良い迫力の男性群舞だ。姫さまたちの挨拶バリエーションは2幕にもあるのだから、2場は彼らの雄姿を魅せる場面と割切り、母と妹たちがちょっと顔を出す以外は登場人物をざっくり減らした方が見応えのある彼らの踊りが映える。

2幕は宮廷舞踏会。姫さまたちとその従者が一緒に踊る。この演出はグリゴロ版が有名で、そのアイディアを採用した他の版もあるが、好きだから文句はない。ただ、姫さまたちはひとりずつ別々に登場するので、あの曲が4回も繰り返される。Kが2回やっただけで鬱陶しかったのに、それが4回ともなるとうんざりする。

他の場面でも、ウェルチさんは曲のフレーズ繰り返しを多用する。踊りを少しでも長く見せるためという意図はわかるが、同じ振付の繰り返しなので、踊りを堪能したというよりは間延び感しかない。

ウェルチ版演出の特徴として強調されているのが、女性主役の4役演じ分け。オデットとオディールそれぞれに、ドレス姿(人間)とチュチュ姿(鳥)があり、昼間は鳥、夜になると人間に戻るという「設定」。最初にその解説を読んだ時は、さすがにその演出は観たことがないから、どう料理するのか楽しみにしていた。

1幕は昼から夜、3幕は夜から朝と一応設定を守ってオデットは変身しているが、2幕のオディールは夜会中に人(招待客のふりをして入城)→鳥(踊りの見せ場)→人(別役を立てて人姿のオデットと城中で対峙)と変わる。オディールは魔物だから時間の制約は受けないと解釈するとしても、1幕と3幕は照明の変化が明瞭ではないため、オデットはただ着替えているだけにしか見えない。しかもどちらの姿でも王子と普通に意思疎通しているから、だったら見た目は鳥(チュチュ)のままでいいのでは? とすら思えてくる。

ブルメイステル版が印象的なのは、冒頭と最後に変身シーンを設けることで悪魔に呪われ、それが解呪されたことを明瞭に示せるからで、ほいほい何度も変身させるだけではありがたみがない。

2幕終了の時点でもう帰りたくなったが(笑)、解説に「胸を締め付けられるような劇的なクライマックスと終幕に圧倒されます」とあったのを思い出し、最後まで付き合うことにした。

3幕はオーソドックスに湖畔の場面。ただしそこにいるのは人間の姿で悲嘆にくれる娘たち。王子もやってきて謝罪するも最初は拒絶するオデット。四の五のやっているうちに朝が訪れ、娘たちは白鳥姿になっていくが、前述のように朝の到来が明瞭ではなく、しかもほぼ同じタイミングでロットバルト軍団がやってくるから、彼女たちは魔法で強引に変身させられたかのようにも見える。

そして問題のエンディング。

オデットとジークは一応和解したように見えたが、ロットには逆らえないということなのか、オデットは湖に身を投じ、王子も彼女を追って湖に身を沈める。そして何の説明も無く「在版通りに」ロットの力は突然弱まり、白鳥たちに袋にされる。

・・・・・・。

おい。(笑)

これのどこが「胸を締め付けられるような劇的なクライマックス」で、圧倒される終幕なんだ?

ソ連版全盛期ならともかく、今時バッド・エンディングなど珍しくもない。身近なところでは熊版がほぼ同じ演出だし、ライト版、ダウエル版、ハート版も似たようなもの。

悲劇バージョンはほかにもいろいろある。ヌレエフ版や現行のグリゴロ版は王子のみ死んでオデットはロットに連れ去られるというなんとも後味の悪い演出だし、バランシン版の王子とオデットは和解すらしない。ノイマイヤー版のジークは殺されておしまい、出身オーストラリアのマーフィ版もジークがひとり取り残される。

印象的なエンディングなら、4幕にオディールも登場する熊版吉田都バージョンや、何百年も未来にワープするエクマン版の方がはるかに記憶に残る。そしてそもそも「白鳥」の原典ライジンガー版は悲劇だということを忘れていないか。

ウェルチ版の特徴を端的に表現するなら、「策士策に溺れる」。アイディアはいろいろ詰め込まれており、面白いな、いいなと思うところもある。もう少し手を加えれば良くなるのにという場面もある。しかし現状は、荷物を詰め込み過ぎて整理しきれなくなったクローゼット状態。

それでも踊りの振付が秀逸ならまだ観られるのだが、ウェルチさんの振付家としての評価はコンテ作品なのでは? と思わせるほど、追加・訂正したバリエーションの振付が中途半端で面白くない。

たとえば1幕の大白鳥たちは体格を活かしたダイナミックな動きが印象的だが、ウェルチ版では脚をあまり上げない小さな踊りになっていた。2幕の姫さまたちの踊りは背後に男性陣を配し、彼らの力強い動きと姫さまの煌びやかな踊りを対比させようという意図のはずだが、肝心の姫さまの踊りもモーションが小さくせせこましかったり、曲のフレーズを持て余したりする。

もうひとつ文句を言いたいのは、1幕後半、主役たちの見せ場。背後で群舞が右往左往するものだから鬱陶しくてたまらない。Kの「バヤ」初演時、幻影の場で群舞の間をうろちょろしては顰蹙を買っていた熊さんの比ではない。後述のように足音もうるさいから、主役の踊りを邪魔しているとしか思えなかった。PDDの時は舞台袖左右に整列し、額縁のように主役を引き立てる在版のフォーメーションの美しさを改めて実感した。

*ひとり4役というウェルチ版の特徴を生かすにはどうしたらいいだろう、とお師匠さまと話していたら、いろいろネタを思いついたので追記も考えたが、長くなりそうなので日記を改めることにした。


★バレエ団の実力

解説には「優れたテクニックと豊かな音楽性、表現力を備えたソリストたち、脚が強くて生き生きとしながらも抒情性も備えたコール・ド・バレエとダンサーも世界トップレベル」とあるが、控えめに言って、これもかなり誇張されている。(笑)

解説は公演前に書いているはずだから、観もせずに書いているのだろうか。少なくともあの舞台を観たらこういう文章は書けないし、現地で観たり動画を観て書いたのだとしたら、日本には2軍が来たのか、でなければ解説を書いた人の鑑賞眼を疑う。

上手いか下手かと問われれば、「下手ではない」。群舞は揃っているし、力強く動きに躊躇いがないのは日頃からしっかり鍛えている証拠だ。

問題は、古典バレエにとって最も大切な優雅さがないこと。たとえば白鳥群舞、鉄道のガード下のような轟音足音は消す気がなさそうだし、統制されてはいるがしなやかさの足りない腕使いや脚捌きは軍隊の行進やハイテンポのリズミック・ダンスのよう。

異論のある人はKの今昔を思い出してほしい。今のKの群舞はため息が出るほど美しいが、熊さんが怪我をする前は「体育会系」と揶揄されたように、古典バレエの優雅さが不足していた。ヒューストンの女性群舞は、さながら昔のKを観ているかのようだった。

男性群舞は女性群舞よりは古典していたが、見応えあるのは跳躍と回転、体格で、5番がちゃんと入らなかったりと小技は苦手なようだ。そして国別の踊りには「らしさ」がない。とはいえ見栄えが良いのは確かなので、1幕2場だけでなく4幕にもロットバルトの討伐隊として登場させれば、投げやりなエンディングも引き締まって演出も斬新さを増す。そしてなによりもこのバレエ団の売りである彼らの出番も増える。

ソリストもせっかくの長い手足をいかせず縮こまった動きをする人や、致命傷ではないが小さなミスを繰り返す人もいて、残念ながら注目したい人はいなかった。黒鳥に選抜? された4人のうち3人はちょっと気になったが、なぜか配役表に名前がない。

ただ、こうした鍛えている踊り手は何かのきっかけで化けることはKのダンサーたちが証明しているから、適切な先生がいれば、あの背格好である。それこそ「世界トップクラス」の群舞も夢ではない。今ならウクライナから教師陣を招いてみてはどうだろう。

キーウでの公演が再開したという話が少し前にあったが、空爆続きでそれもどうなったかわからない。冬を前に生き延びることすら難しいという人々もいる。単に支援の手を差し伸べるのではなく働く場も提供できれば精神的なケアにもなり、ヒューストン側も必ずレベルが上がるから、win-winの関係を築けるのではないだろうか。

ダンサーたちの力量は解説者が記すほど高くはないが、演技力は特筆したい。舞台のどこにいても常になんらかの演技をしているし、それも自然に見える。Kの飯島さんの演技力はここで養われたのだろうと納得。演技指導には良い先生がいるようだ。

飯島さんといえば、最初はなぜこんな下手な人をKは採用したのだろうと思ったが、「クレオパトラ」の配信を御覧になった我が師によると成長は続けているようだ。あと2年くらいしたら彼女の主役公演にも足を運んでみようと思う。

彼女がヒューストンを離れたのは、やはり居づらくなったからではないかと思う。Kに入団した頃の彼女と、今回観たヒューストンの団員たちを比べると、基本的な体力や技術は、明らかにヒューストンのダンサーたちの方が上。飯島さんも表現力は負けていないと思うが、プリシンパルともなるとそれだけでは周囲も納得しないだろう。

話が前後してしまったが、主役はレインさんとアンドレさん。加冶屋さんは観たことがあるし、まだ贔屓リストには入っていないから、ヒューストンの人なら誰でも良かったので日程優先で取ったところ、レインさんはゲスト・プリンシパルだった。なんでやねん。(笑)

映画以外でもどこかで観ているはずだが、彼女も贔屓リストには載っていない。にもかかわらず、今回観た女性陣の中ではいちばん優雅な踊りをしていた。でもオディールはいただけなかった。彼女はテンポのゆっくりとした抒情的な踊りの方が得意なようだ。

アンドレさんは他の男性陣と比べるとやや線が細いので、ロットバルト役のクーマーさんの方が印象に残った。踊らないのが惜しいが、存在感、威圧感は申し分ない。


指揮者のマクフィーさんはここの人かと思ったら、ボストンからのゲストだった。緩急メリハリのある指揮振り。オケはシアター・オケで、まあまあ当たりの奏者たちだった。アンサンブルがしばしば乱れるのは指揮者との打ち合わせ不足だろうか。マクフィーさんの人物紹介を見ると、ヒューストンとの関係については特に触れられていない。ならば(スケジュールが合えばだが)井田さんでも良かったのではないだろうか。

先行発売でチケットを買ったから値段についてはすっかり忘れていたが、S席2.2万という数字を見て凹むとともに、光藍社には2つの意味でちょっとがっかりした。

まずチケット代と舞台内容のバランス。これまで良質な舞台を良心的な値段で見せてくれた光藍社だから、多少高くてもそれに見合った内容だろうと思って買ったのを思い出した。しかしあの内容と知っていたら、Kバレエの公演を買い足していただろう。高い勉強代だった。

もうひとつは公式サイトの掲載情報。解説者は2名いて、バレエ団のプロフィールや公演全般をまとめているのは上野さん。アメリカのバレエ、中でもバランシンとNYCBが好きな方だという。必要な情報をしっかり押さえつつ要点を的確にまとめた解説は、公演概要を記した文としてはお手本のような内容で、こちらに文句はない。

がっかりしたのはもう一人の森さん。ライターと肩書きにあるように、文章そのものは上手くまとめている。しかし中身は典型的な提灯記事。立場上、対象を悪く書けないというのはわかるが、それでも書きようはあるわけで、事実との乖離が激しい記事を書いた時、恥をかくのは自分だということがわかっているのだろうか。

読み手に知識があれば冷笑するだけだが、問題は嘘を信じてしまう初心者がいること。お師匠さまのおかげでバレエについては遠回りすることは無かったが、冒頭に書いたように、日本酒に関してはいい加減な記事のせいでしなくてもいい散財をしてしまった。

公の場に記事を載せる者は、常にその影響力を意識して書くべきだ。
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